ローマ字の なりたち

外国人の ローマ字

ローマ字は 日本人が つくった ものでは ありません。宗教を ひろめる 目的で 日本に やってきた 外国人が ローマ字を つくりました。初期の ローマ字は すべて 外国人が 外国人の ために つくった ものです。

ポルトガル式,オランダ式


島津斉彬

16世紀の 末に イエズス会の 宣教師が 日本に やってきました。かれらは 布教の ために 日本語を 勉強 していました。外国語を 勉強 する とき,日本人は 外国語の 読みかたを カタカナで 書いたり しますが,かれらは 日本語の 読みかたを ABCで 書きました。これが 最初の ローマ字です。かれらは ポルトガル語を つかっていたので,その つづりかたも ポルトガル語風でした。それで,この ローマ字は ポルトガル式と よばれています。ただし,この ローマ字は 日本人の あいだに ひろまりませんでした。キリスト教が 弾圧 される ように なったからです。

18世紀の 日本は ネーデルラント(オランダ)と つながりを もっていたので,今度は オランダ語風の ローマ字が つくられました。これが オランダ式です。これも 一般の 日本人には ひろまらず,蘭学者など 一部の 人たちの あいだ だけで つかわれました。幕末の 薩摩藩主 島津斉彬(しまづ なりあきら)は,この ローマ字で 日記を 書いていました島津斉彬は「日の丸」を 日本の 船の 旗に しようと 提案 した ことでも しられています。

ヘボン式


ヘボン

1867(慶応3)年,アメリカ人の 宣教師 ヘボンが「和英語林集成」という 和英辞典を つくりました。その みだし語は ローマ字と カタカナと 漢字で 書かれ,ABC順に ならべられていました。

このころ,日本に ローマ字を ひろめる 運動を していた「羅馬字会」という 団体が あり,「和英語林集成」が つかっていた ローマ字に すこし 手を くわえた ものを 会の 方式として 採用 しました。ヘボンは「羅馬字会」の 顧問に なっていたので,「和英語林集成」の ローマ字を 第3版から この 修正バージョンに あわせました。

そして,この 書きかたは 日本人の あいだに どんどん ひろまっていきました。これが 現在 つかわれている ヘボン式の もともとの 形です。

日本人の ローマ字

ローマ字の 便利さに 気づいた 日本の 知識人は これを 日本に とりいれようと しました。ところが,実際に ヘボン式を つかってみると,それは 日本語を 書くのに 適していない ことが わかったので,その つづりかたを 日本語流に あらためました。外国の すぐれた ものを 日本に とりいれる とき,日本人が 昔から やってきた ことを このときも やった わけです。

日本式


田中館愛橘

1885(明治18)年,物理学者 田中館愛橘(たなかだて あいきつ)が「理学協会雑誌」に「理学協会雑誌を羅馬字にて発兌(はつだ)するの発議及び羅馬字用法意見」を 発表 して,ヘボン式に かわる あたらしい ローマ字を 提案 しました。「発兌」とは 書籍や 紙幣を 印刷して 世に だす ことです。この ローマ字は 天文学者 寺尾寿(てらお ひさし)の アイデアでしたが,田中館は それを 学術雑誌で つかおうと いった わけです。のちに この ローマ字は「日本式」と よばれる ように なりました日本式は 寺尾寿の オリジナルという わけでは なく,すこし 前から これと おなじ ような ローマ字が つかわれていました。それを 体系的に まとめたのが 寺尾寿や 田中館愛橘らの グループです。

それまでの ローマ字は 外国人が 日本語を 読む ための ふりがなの ような ものでしたから,つづりが 外国語風でした。それに たいして,この あたらしい ローマ字は つづりが 日本語風です。日本人が 日本語の 文章を 書く ために つくった ローマ字だからです。こうして,外国人の 道具で あった ローマ字が 日本人の 道具に なりました。

しかし,すでに 定着 しつつ あった ヘボン式を 変更 する ことに 抵抗を かんじる 人も おおかった ようです。1886(明治19)年,田中館の 提案は「羅馬字会」の 総会で 否決 されて しまいます。ここから ヘボン式日本式の 対立が はじまります。

ヘボン式の 支持者と 日本式の 支持者は はげしい 議論を たたかわせ,それぞれの 方式を 熱心に 宣伝 しはじめました。その 結果,1913(大正2)年に 中央気象台が 日本式を 採用 し,1917(大正6)年に 陸軍陸地測量部の 地図が 日本式に なり,1922(大正11)年に 海軍水路部の 海図が 日本式に なり,1927(昭和2)年に 鉄道省の 駅名表記が ヘボン式に なりました。1928(昭和3)年には 陸軍省が,1929(昭和4)年には 海軍省が,それぞれ 正式に 日本式の 採用を きめていますおおづかみには,ふかい かんがえの ない 一般人と アメリカかぶれの 人が ヘボン式の 支持者,理論的な かんがえかたを このむ 理系の 人と 日本固有の ものを おもんじる 保守派の 人が 日本式の 支持者という 図式に なるかも しれません。昔は いわゆる 理系の 学者に ローマ字論者が おおく,特に 日本式の 支持者が おおかった ようです。ローマ字論者が おおかった 理由は,つねに 外国と 情報交換を している 理系の 学者は 日本語の 閉鎖性を 意識 する ことが おおかったからです。日本式の 支持者が おおかった 理由は,自然科学の 分野で ドイツ語や フランス語が 影響力を もっていた 時代なので,理系の 学者が 英語を 相対化 する 視点を もっていたからです。たとえば,ドイツ語の 論文を よく 読む 人なら,〈チ〉を chi と 書いたり ja を〈ジャ〉と 読んだり するのは おかしいと かんじるでしょう。ドイツ語の つづりは そう なっていないのですから。


中央気象台の 地名表記

日本式Gihu(岐阜),Kôhu(甲府),Matumoto(松本),Maebasi(前橋),Tukubasan(筑波山),Utunomiya(宇都宮),Asio(足尾),Hukusima(福島),Midusawa(水沢)と 書かれています。

訓令式

ローマ字の 方式が 統一 されない ことは 日本 だけの 問題では なく,外国も 日本の 地名表記が さだまらないので こまっていました。1928(昭和3)年,とうとう 万国地理学会議が 日本に 地名表記を 統一 して ほしいと つたえてきました。

そこで,文部省は 1930(昭和5)年に「臨時ローマ字調査会」を たちあげ,専門家が 議論を かさねた 結果,1937(昭和12)年9月21日に 内閣訓令第3号「国語ノローマ字綴方統一ノ件」が だされました。「訓令」は 行政機関への 命令ですから,このとき はじめて 公式の ローマ字が うまれたと いえます明治時代に 文部省が 教材用の「ローマ字掛図」を つくったり「羅馬字書方調査報告」を まとめたり した ことは ありましたが,公式の ローマ字を さだめる ことは していませんでした。なお,「訓令」は 行政機関への 命令ですから,公の 分野で つかう ローマ字の 方式を きめている だけです。民間の 企業などに たいしては 強制力を もっていません。

ただ,この あたらしい ローマ字には 名前が ついていませんでした。それで,ヘボン式日本式と 区別 する ために,自然と「訓令式」とか「国定式」と よばれる ように なり,やがて「訓令式」に おちついたという わけです。

ヘボン式日本式は 根本的な ところで かんがえかたが ちがいます。そのため,ふたつの 方式の 支持者は はげしく 対立 し,「臨時ローマ字調査会」の 議論は 何年も つづきましたが,おおまかに いえば,日本式の かんがえかたを 採用 する 形で まとまりました。「ローマ字表」を くらべてみると あきらかな ように,訓令式日本式は ほとんど おなじです。かんたんに いえば,日本式を あたらしく したのが 訓令式ですそのため,日本式を 支持 する 専門家の 中には 訓令式を そのまま 日本式と よびつづけ,日本式を「純日本式」と よぶ 人も います。

訓令式が できた ことで,公の 分野で つかわれる ローマ字は すこしずつ 統一に むかっていきました。1938(昭和13)年には 鉄道の 駅名が 訓令式に かわりました。1942(昭和17)年には「英語」の 教科書で つかわれる ローマ字も 訓令式に なりました。


MT. HUZI」 (昔の 教科書)

これは「英語」の 教科書ですが,「富士山」を Mt. Huzi と 書いています。ただし,これは 英訳です。地図や 案内板の 表示は 翻訳 する 必要が ないので,日本語で Huzisan と 書けば いいでしょう。

なお,Mt. HuziMont Blanc(モンブラン)を Mt. Blanc と 書いているのと おなじですから,翻訳が すこし 変です。


ただし,民間の 企業や 英語教育に かかわる 団体などは そのまま ヘボン式を つかいつづける ことも ありました。パスポートの ローマ字も 原則として 訓令式に する よう 通達が だされましたが,実際には かわっていません。

戦前,戦後

戦争の 前と あとでは さまざまな 価値観が さかさまですが,それは ローマ字も おなじです。戦前は ローマ字が 危険思想と みなされて 弾圧 されました。戦後は 日本を 民主化 する ために ローマ字教育が 本格的に おこなわれる ように なりました。

ローマ字の 弾圧

昭和の はじめごろは 国粋主義・全体主義の 時代でした。一般人の あいだに 外国の ものを しりぞける かんがえが わきおこって ひろまっていき,外国語で 書かれた 看板や カタカナ表記の 外来語が やり玉に あげられました。英語を「敵性語」だと いって 攻撃 した だけで なく,まったく 無関係な 外国語や ローマ字で 書いた 日本語まで いいがかりを つけられました。

このころ,日本の 政府は 民主的な かんがえを おさえつける ように なっていました。くわしくは「ローマ字の 目的」で 説明 していますが,ローマ字は 日本の 民主化と かかわっています。ローマ字を ひろめる 運動を していた 人たちの 中には 政府と 対立 する かんがえの 人も いて,政府は ローマ字を 一種の 危険思想と みなしていました戦後の 民主化を こころよく おもっていない 一部の 保守派が ローマ字の 悪口を 書きたてる ことは いまでも よく あります。この 手の 人たちは ローマ字に かんする あやまった 歴史を ばらまいている ことが おおく,世の中に いろいろな 勘ちがいが ひろまっています。

1939(昭和14)年には「左翼ローマ字運動事件」が おこっています。これは 大勢の ローマ字運動家が 逮捕 された 事件です。逮捕者の 中には 当時 非合法と されていた 活動に かかわった 人も いましたが,おおくは 特高警察による でっちあげの 事件でした。ローマ字を ひろめる 運動と 平和を もとめる 思想には かさなりあう ところが あるので,ローマ字運動家は 目を つけられたのでしょう。「読みもの」の「斎藤秀一」も お読み ください。


「看板から米英色を抹殺しよう」(写真週報)

「敵性語」の 排斥運動は 町内会や 国粋主義的な 団体などから 自然に わきおこった もので,新聞や 雑誌に あおられて ひろまっていきました。理屈に もとづいていないので,やる ことが めちゃくちゃでした。

GHQの 命令

1945(昭和20)年,戦争が おわって 占領の 時代が はじまりました。GHQは さっそく 道路や 駅に その 名前を 英語で 掲示 する ことを 命令 したのですが,そのとき ヘボン式を つかう よう 指定 しました。このため,日本の ルールで ローマ字は 訓令式を もちいる きまりに なっているのに,実際には いたるところ ヘボン式だらけに なって しまいました。

日本国政府ハ一切ノ都会自治町村及市ノ名称ガ此等ヲ連結スル公路ノ各入口ノ両側及停車場歩廊ニ少クトモ六「インチ」以上ノ文字ヲ使用シ英語ヲ以テ掲ゲラルルコトヲ確保スルモノトス名称ノ英語ヘノ転記ハ修正「ヘボン」式(「ローマ」字)ニ依ルベシ

SCAPIN-2 Part II, 17[原文


ローマ字の 道路標識

このころは,訓令式を 支持 する かんがえの 中に 国粋主義・軍国主義が あるのでは ないかと うたがわれていました。なにしろ 訓令式は 国定の 方式で,陸軍も 海軍も それを 採用 していました。GHQの 中には 日本を 民主化 する ために 訓令式を おさえつける べきだと かんがえる 人も いた はずです陸軍や 海軍が 訓令式を 採用 していた ことも あり,訓令式の 支持者には 軍人との かかわりや いさましい 発言の おおい 人が いたとも かんがえられます。訓令式が できてから くすぶりつづけていた ヘボン式の 支持者が 訓令式の 支持者の 悪口を GHQに ふきこんだり したかも しれません。とにかく,訓令式の 支持者だと いうので,あらぬ うたがいを かけられて,ひどい 目に あった 人も いた そうです。

しかし,GHQが ヘボン式を 強制 した 理由は それでは なく,占領軍に 便利だったからです。じっさい,GHQは 学校で おしえる ローマ字の 方式には 口だしを しませんでした。どの 方式を おしえても いい ことに なっていて,訓令式日本式を おしえる 学校も おおかった ようです。

日本語表記の ローマ字化?

1946(昭和21)年,マッカーサーに まねかれて 日本に やってきた アメリカ教育使節団が 日本の 教育を あらためる 提案を まとめました。その 中に つぎの 部分が あります。

国字の問題は教育実施上のあらゆる変革にとって基本的なものである。国語の形式のいかなる変更も、国民の中から湧き出てこなければならないものであるが、かような変更に対する刺戟の方は、いかなる方面から与えられても差しつかえない。単に教育計画のためのみならず、将来の日本の青年子弟の発展のためにも、国語改革の重大なる価値を認める人々に対して、激励を与えて差しつかえないのである。何かある形式のローマ字が一般に使用されるよう勧告される次第である。[…]文字による簡潔にして能率的な伝達方法の必要は十分認められているところで、この重大なる処置を講ずる機会は現在が最適で将来かかる機会はなかなかめぐってこないであろう。言語は交通路であって、障壁であってはならない。この交通路は国際間の相互の理解を増進するため、また知識および思想を伝達するためにその国境を越えた海外にも開かれなくてはならない。

すこし わかりにくいですが,日本語を ローマ字で 書く よう すすめています。ほかにも 教育を あらためる ための さまざまな 提案が なされ,日本の 教育制度は この 提案に もとづいて おおきく あらためられました。「6-3-3制」「男女共学」「教育委員会」「PTA」「社会科」などは すべて このとき できた ものですこの 目的は 日本の 民主化(学習の 容易化),近代化(機械化と 利便性・経済性の 向上),そして 国際化でした。また,当時は 漢字と 軍国主義との むすびつきも うたがわれていました。「八紘一宇」「七生報国」「忠君愛国」「滅私奉公」などの ことばで 軍国主義の 教育が おこなわれていた 事実が あるからです。ローマ字なら 検閲に 便利だからという 理由も ありました。

けれども,この 提案の 中で たった ひとつ だけ 実行 されなかった 項目が あります。それが 日本語表記の ローマ字化です。GHQは この 提案に 興味を しめしませんでした。マッカーサー 自身が 否定的な 所感を のべています。ときどき,アメリカは 日本語表記の ローマ字化を たくらんでいた,などと いう 人が います。けれども,そんな 事実は まったく ありません。


インターネットには この 件を あつかった 記事が たくさん あります。しかし,それらの ほぼ すべては まちがいで,一部の 保守派が 意図的に 書きこんでいる ものか,それに だまされた 人が ひろめている ものです。雑学的な 知識を あつかう テレビ番組などが いいかげんな 情報を たれながしている ことも よく あります。

日本語の 表記を ローマ字化 する かんがえは 外国人の おもいつきでは なく,日本人が いいだした ことです。こうした かんがえは 江戸時代の おわりから 明治時代の はじめに かけて うまれてきた もので,明治時代の 中ごろには 具体的な 活動を おこなう「羅馬字会」の ような 団体も できていました。このように,日本語を ローマ字で 書く かんがえは 昔から あった ものです。くわしくは「ローマ字運動」を お読み ください。

ローマ字教育


「ローマ字」の 教科書

これは 昭和20年代に つかわれていた 小学4年生の 教科書です。ローマ字は まだ 必修に なっていなかったので,「国語」の 教科書とは 別に「ローマ字」の 教科書が つくられました。

日本政府は ローマ字教育が 重要で ある ことを しっていました。外国人に 指摘 されなくても,日本語の 表記システムに 欠陥が ある ことは あきらかです。将来的には 漢字を やめて 日本語を 表音文字(かな文字 または ローマ字)で 書く ように かえていく 基本方針は 明治時代から きまっていました。また,戦後 しばらくの あいだは 国語改革に 反対 する 保守派が 発言力を よわめていた 時期でも あり,改革派の いきおいが ましていました1902(明治35)年の「国語調査委員会」で,日本語は 言文一致体で 書く こと,文字は 表音文字に する こと,などが きめられました。これが 日本の 国語政策の 基本方針でした。この かんがえは のちの「臨時国語調査会」(1921年~),「国語審議会」(1934年~)にも うけつがれ,戦後の 1960年代まで かわる ことは ありませんでした。

そんな 中,文部省が「ローマ字教育の指針」「ローマ字文の書き方」を さだめ,戦前から 一部で おこなわれていた ローマ字教育が 小学校と 中学校で 本格的に はじまりました。1950年の 調査に よると,小学校の 84.3%,中学校の 48.1% で ローマ字教育が おこなわれていました。

現在,ローマ字教育は 小学校の「国語」で ほんの すこし あつかわれる だけですが,このころは 十分な 時間を とった 授業が おこなわれていました。立派な「ローマ字」の 教科書も ありました。

読み書き能力テスト

日本人の 読み書き能力は 世界的に みても たかいと いわれていましたが,その 一方で,正常な 社会生活を いとなむには 不十分だという 主張も ありました。そこで,1948(昭和23)年に 読み書き能力を しらべる 大規模な テストが おこなわれました。もし 結果が 極端に わるかったら,抜本的な 国語改革が 必要です。それを たしかめる ための テストでした。

全90問の テストに 約17000人が 参加 した 結果,平均点は 100点満点に 換算 して 78.3点,「非識字者」の 割合は 1.7%でした。この 結果から,抜本的な 国語改革は 不要と 判断 されました。

しかし,改革派は「満足な 読み書き能力を もっている 者は 6.2%」と 結論づけ,国語改革の 必要性を あらためて 確信 しました。改革派に してみれば,日本人の 日本語を あやつる 能力が おとっている ことは テストを する 前から わかりきっています。だから 日本語の 表記システムを もっと やさしく しようと うったえていた わけです。テストの 問題は 日常の 生活で 必要と される 読み書き能力の 最低水準で つくって ありましたから,本当なら みんな 満点が とれて あたりまえです。きびしい いいかたを すれば,満点の 人 だけが「識字者」です。ところが,満点の 人は 4.4%しか いませんでした。ケアレス ミスと おもわれる まちがいを 正答に しても,満点の 人は 6.2%にしか なりませんでしたこの テストの 問題は つぎの ような ものでした。試験官が いった ことばを ひらがな・カタカナで 書く:「春に咲くさくら」「食べるウドン」;数字を 書く:「明治28年9月16日」「五丁目番地」;試験官が いった ことばを えらぶ:「こんにあく、こんなゃく、こんにゃく、こんにく、こんにょく」「ミシン、ミシシ、ミシい、ミシレ、ミシツ」「日木、日米、目本、日本、二本」;漢字の 書きとり:「を見る。」「先生お体を大切に。」「みなさん元気ですか。」「私にはがあります。」;意味が 通じる 語を えらぶ:「朝、太陽は(冬、、雨、上)から出る。」;ことばの 意味を えらぶ:「禁煙(スリに御用心、ぼうしをとれ、静かにせよ、ここからはいるな、タバコを吸うな)」;運動会の 告知や 求人広告などを 読んで,その 内容に ついての 質問に こたえる 文章問題。全体的に やさしい 問題 ばかりです。漢字の 書きとりには すこし 手ごわい 問題も ありますが,それでも「保証人」「履歴書」の レベルです。なお,この テストは 日本で はじめて 統計的手法に もとづいて おこなわれた 調査で,念いりに 準備 して おこなわれました。しかし,のちの 研究は この テストに おおくの 不備が あった ことを 指摘 しています。たとえば,テストを うける ことに なった 人には テストの 会場や 時間を 説明 した 案内状が おくられたのですが,それは むつかしい 漢字だらけの 文章で 書かれていました。もしかしたら,案内状が 読めなくて テストを すっぽかした 人が いたかも しれません。報告書では 解答が すべて まちがっていた 人 だけを「非識字者」(実際の 報告書では 別の ことばを つかっています)に カウント しており,解答欄に 何も 書けなかった 人を「無反応者」と して 別に カウント しています。この「無反応者」が 1.6%も いました。さまざまな 障害を もつ 人は はじめから テストの 対象に はいっていませんでした。こういう 人たちは 学校で きちんと した 教育を うけられず,読み書きが 苦手で ある 割合が たかかった はずです。また,点数が わるかったら 天皇に 恥を かかせる ことに なると かんがえられていた 時代ですから,読み書きの 苦手な 人が 仮病を つかったとか,試験官が こっそり ヒントを だしたとか,さまざまな 不正の うたがいも あります。


よく,この テストの 目的は 日本語表記の ローマ字化だったと いわれます。また,それに 都合が いい よう 報告書に 手心を くわえて ほしいと GHQの 担当者から たのまれた 日本の 学者が それを つっぱねたという 話も あります。しかし,これらは まったくの デタラメです。そんな 事実は ありません。そもそも GHQが 日本に ローマ字を おしつけようと した ことは ただの 一度も ありませんしたがって,この テストは ローマ字の 歴史とは あまり 関係が ない わけですが,まちがった 歴史が 意図的に ひろめられている 現状を かんがえて,すこし くわしく 説明 しました。

ローマ字による 教育実験

1948(昭和23)年から 小学校の「国語」以外の 授業を ローマ字 だけで おこなう 実験が はじまりました。黒板も ノートも ローマ字で,という 大胆な 実験です。そうして ふつうの クラスと 授業の 理解度に ちがいが でるか しらべる 計画でした。

残念ながら,この 実験は 十分な 予算や 日程が わりあてられず,いいかげんに 実施 されました。担当者にも 不誠実な 態度だった 人が おおく,はじめから この 実験を つぶしに かかっていた 節さえ ありますこの プロジェクトは 教育使節団の 勧告を うけて,民間情報教育局が 命令 して おこなわれたのですが,実験の 意義が よく 理解 されていなかった ようです。また,別の 理由として,日本の ローマ字運動家に たいする 偏見も ありました。熱心な ローマ字運動家は 共産主義者だと おもわれたり,日本式訓令式の 支持者は 国粋主義者では ないかと うたがわれたり していました。

この 実験では ローマ字で 授業を おこなった 児童の ほうが よい 成績を しめしました。実験の 条件が ととのっていれば,もう すこし はっきり した 結果が でたと かんがえられています。実験に くわわった 教師も 児童も 保護者も ローマ字で おこなう 学習に たいへん 満足 していた ことが わかっていますただし,これは 単に ローマ字で 学習 した クラスの ほうが 成績が よかったからとも かんがえられます。教師と 保護者は 結果が よければ 手段は なんでも いい わけで,児童も 親が よろこべば うれしいでしょう。

しかし,この 実験は 3年で うちきられ,それから のち,かえりみられる ことも ありませんでした。

ローマ字の おとろえ

日本の 国語政策は いわゆる「逆コース」の 時代から 政治の 力で ねじまげられる ように なって しまい,日本の 民主化と かかわっている ローマ字も おとろえていきました。

「ローマ字のつづり方」

1952(昭和27)年,GHQによる 統治が おわり,形の 上で 日本は 主権を とりもどしました。吉田茂内閣は「ローマ字調査分科審議会」を たちあげ,1954(昭和29)年12月9日に 内閣訓令第1号「ローマ字のつづり方の実施について」を 公布 しました。これは 1937(昭和12)年9月21日に だされた 内閣訓令第3号「国語ノローマ字綴方統一ノ件」の 改定です。

「ローマ字のつづり方」は おおきな 変更点を ふくんでいました。ふつうは 訓令式を もちいると しながらも,特別な 事情が あれば ヘボン式日本式 を つかって いい ことに したのです。ヘボン式日本式の 対立が 問題に なって,ローマ字の 書きかたを 統一 する ために 訓令式を つくった はずなのに,ヘボン式日本式が 復活 した わけです。

この ルールを きめる はなしあいの 中で,ヘボン式を ゆるしたら ローマ字を 訓令式で 統一 できないという 懸念が しめされていました。それでも ヘボン式を みとめる ことに したのは,その つかい道を きびしく 制限 していたからです。この ルールの 原案を つくった 国語審議会は「教育の場」「公文書」「地名」では 訓令式が つかわれる ことを 想定 していて,「人名」などに かぎって 例外を みとめる かんがえでした。ところが,「ローマ字のつづり方」が できあがってみると,その 部分が きえていました。

ヘボン式を おしつけていた GHQの 命令が 無効に なったら,公の 分野で つかう ローマ字は 訓令式に もどさなければ なりません。それで,アメリカに へつらう ように なっていた 日本政府が あわてて ヘボン式を 合法化 したのではないか。その ように うたがわれても しかたが ないでしょう。

訓令式の おとろえ

「ローマ字のつづり方」が できても,ローマ字が 訓令式で 統一 される はずも ありません。それどころか,公の 分野で ヘボン式が おおっぴらに つかわれる ように なり,パスポートの ローマ字道路標識(案内標識)の ローマ字駅名標の ローマ字などが ヘボン式から 派生 した 書きかた ばかりに なりました。

「英語」の 教科書も 日本の 人名や 地名を ヘボン式から 派生 した「英語式」で 書く ように なり,日本人の 名前を「名-姓」の 順に 書く 奇妙な 習慣も 英語教育に よって 定着 して しまいました。ビジネスの 分野で つかわれる ローマ字は ずっと ヘボン式が 主流でしたから,「国語」で おしえる ローマ字の ほかは ほぼ ヘボン式一色に なったと かんがえて いいでしょう。

公の 分野で ヘボン式が つかわれるのは アメリカの 影響です。役人は「ローマ字のつづり方」が さだめている 本則が 訓令式で ある ことを しっています。それを 承知で ヘボン式を つかっています。ビジネスの 分野で ヘボン式が つかわれるのも ビジネスの 世界で 英語が つよい 影響力を もっているからです。おおくの 一般人が ヘボン式を このんで つかうのも それと 根っこは おなじです。直接の 理由は 一般人が ローマ字の 知識を もっておらず,ヘボン式が 正式の ルールだとか 国際的で すぐれた 方式だとか,勘ちがいを している ことです。しかし,そう なっているのは 日本の 政府や 経済界が 一般人を あざむいて そのように しむけているからですおおくの 外国人は 日本の ローマ字を 不思議に おもって みています。日本語は 英語と まったく 関係の ない 言語で,日本が 植民地に されていた 歴史も ないのに,ローマ字の つづりが 英語に にているからです。しかも,日本人が 書く ローマ字は 人に よって つづりが ちがう ことも しばしばで,まちがって 書いている 人が おおいのは あきらかです。日本語の つづりが 英語と にていて,日本人が 日本語を 正しく 書けないのですから,外国人が 首を かしげるのも 当然でしょう。

ローマ字教育の おとろえ

ローマ字教育は,小学校が 1961(昭和36)年から,中学校が その つぎの 年から,必修に なりました。

しかし,ここに いたって 日本語表記の 改革に 反対 する 保守派の いかりは 頂点に たっします。国語審議会の 内部で おこっていた 対立も はげしく なり,保守派の 委員が 集団で 脱退 する 抗議行動を おこして,それが 国会で とりあげられる 事件に なりました。問題を 政治の 場に もちこむ 作戦だったのかは わかりませんが,結果として これが まがりかどに なりました。このころ 政治の 世界では 保守派が いきおいを とりもどしていたからです。

この 騒動で「ローマ字調査分科審議会」は 廃止 され,ここから ローマ字教育は みるみる おとろえていきます。1958(昭和33)年の 学習指導要領では 1年に 40時間 勉強 する ことに なっていた ローマ字学習の 時間も どんどん すくなく なっていきましたいまは 学習指導要領に 授業時間の 指定すら なく,4時間 ほどしか 勉強 していません。文字の ABCを おぼえる ところから はじめて 4時間ですから,ローマ字の 読み書きは ほとんど 勉強 していないと おもわれます。

学識者による 建議機関として 独立性を もっていた 国語審議会も 文部大臣の 諮問機関に なり,性格が かわって しまいました。ローマ字運動家が 弾圧 された 軍国主義の 時代でさえ 特定の 勢力に 介入 されなかった 国語政策は,このころから 政治の 力で ゆがめられていく ように なります。たとえば,1966年の 国語審議会総会では ある 政党の「要望」が 説明 されました。

1980年代に はいると,国語審議会は 人気の 歌人などを つかって 世論誘導を する ように なり,戦後に おこなわれた 国語改革を つぎつぎと 骨ぬきに していきました1981(昭和56)年に「当用漢字」が 廃止 されて「常用漢字」に なり,1986(昭和61)年に「現代かなづかい」が 廃止 されて「現代仮名遣い」に なりました。これらの 改定で ルールの 位置づけが かわり,強制力を もたない ただの「目安」に なりました。2001年の 省庁再編で,国語審議会の しごとは 文化審議会国語分科会に うつされましたが,その 文化観は うしろむきです。おまけに,日本語の 表記を どう するかという 技術論から はなれて,文化を 意識 した 精神論に かたむいてきました。だんだん 説教くさく なってきたとも いえます。2007年に「敬語」の 分類を みなおしたのは 象徴的です。近年は「国語で郷土愛を育くむ」という わけの わからない 世界に まよいこんでおり,もはや 倫理・道徳を とく タイプの 宗教団体と みわけが つかない ありさまです。心の 中の きまりと 世の中の きまりを わけて かんがえない 国は 文明国と いえません。「常用漢字」は 2010年にも 改定 され,漢字の 数が ふやされました。人名に つかえる 漢字も どんどん ふえてきており,漢字制限という「たが」が はずれた 状態に なっています。

あたらしい ローマ字

ワープロの 開発が 日本語の 書きことばに あたえた 影響は はかりしれません。ローマ字も おおきな 影響を うけました。

ISO 3602

1989年,国際標準化機構(ISO)は 訓令式を ローマ字の 国際標準として 採用 しました。それが ISO 3602 です。訓令式は 日本 だけで なく 世界の 標準として みとめられた わけです。この 規格に 強制力は ありませんが,外国が 日本語を ABC表記に する とき ISO 3602を もちいる ことが 期待 されています。

しかし,日本政府は ISO 3602を 無視 しています。国内で つかわれている おおくの 独自ルールを これに あわせて 統一 する うごきも ありませんISOの 規格は 定期的に みなおされる ことに なっています。現在 その 作業が すすんでいて,おおきな 変更が あるかも しれません。ヘボン式に かわるとか 廃止 されるとかの 可能性も あります。


中国語・韓国語にも ローマ字が あり,中国・韓国は 国際的な 場で それを つかっています。たとえば,「北京」は Beijing ,「釜山」は Busan です。これらは 中国語・韓国語の 性質に あわせて 設計 された,中国語らしい ローマ字・韓国語らしい ローマ字です。そのため,外国人に とって 読みやすい つづりには なっていません。それでも 中国・韓国が これらの ローマ字を つかうのは,それが 国際社会の 理念に かなっているからです。そして,プライドを もった 国なら それが あたりまえだからです。残念ながら,日本は この あたりまえの ことが できていません。

「ワープロ式」

日本語入力システムの ローマ字入力は もともと ワープロ専用機の 機能でしたが,すぐに パソコンの 基本機能に とりこまれました。1990年代に はいると 会社や 家庭に パソコンが ゆきわたり,この ローマ字入力を つかう 人が ふえました。

しかし,ローマ字入力と ローマ字が 混同 される ように なって しまい,「ワープロ式」と よばれる 変な ローマ字が はびこる もとに なっています。ローマ字を よく しらない 人が ローマ字入力を おぼえると,あとから ローマ字を 理解 するのが むつかしく なります。いまは 小学校で ローマ字と ローマ字入力を おなじ タイミングで おしえている ことが おおく,これが ローマ字の 理解を さまたげています。

ローマ字入力の ルールは メーカーの 独自設計です。いまは 公式の 規格も ありません以前は JIS X 4063:2000「仮名漢字変換システムのための英字キー入力から仮名への変換方式」という 規格が ありましたが,廃止 されました。MS-IME の ルールが 事実上の 標準に なり,公式の ルールは 必要が なく なったのでしょう。

99式

1999年,「日本ローマ字会」が 99式を 提案 しました。これは キーボードで 日本語を 入力 する 時代に あわせて 設計 された ローマ字です。インターネットで 情報を やりとり する 場合にも つかいやすい 方式です。

99式は,それまでの 方式では 書きかたが きまっていなかった,特殊音(〈ティ〉〈ファ〉〈チェ〉など)にも 対応 しています。長音符号つき文字â, î, û など)を つかわない ので,キーボードから 入力 しやすく,メールなどで「文字ばけ」を 心配 しなくて いい 利点も あります。ローマ字入力の ローマ字に にているので,すでに 日本語を しっていて ローマ字入力を つかっている 人なら だれでも すぐに おぼえて つかいこなせる やさしい ローマ字です。

ただし,ふりがなを ABCに 変換 する 規則として 定義 されていて,音声を 中心に かんがえる ローマ字の 原則から はずれています。そのため,厳密には 日本語の 正書法としての ローマ字とは いえません。したがって,この 方式が ローマ字の すすむ べき 方向を しめしている わけでは ありません「日本ローマ字会」は「漢字かな交じり」の 表記が つかわれている あいだの 代書法で あると 説明 しています。

これからの 課題

いま,ローマ字を 正しく 書ける 人は ほとんど いません。日本と 日本語の ために,また 日本語で くらしている 人の ために,この 状況を かえていかなければ なりません。

ルールの みなおし

「ローマ字のつづり方」は 半世紀 以上も 前に つくられた ルールで,いくら なんでも ふるすぎます。しかも,政治的な 意図で その 内容が ゆがめられています。それどころか,行政機関に たいする 命令で ある「ローマ字のつづり方」を 行政機関は 完全に 無視 しています。たとえば,外務省は パスポートの 名前で つかう ローマ字を 説明 する ときに「ローマ字のつづり方」を 参照 していません。

また,「ローマ字のつづり方」が さだめているのは ローマ字の 書きかたの ごく 一部です。ルール化 しなければ ならない 項目は ほかにも たくさん あります。

ローマ字の 書きかたを 理念と 理屈に もとづいて くみたてなおし,その ルールが およぶ 範囲を あきらかに し,その 運用を 徹底 しなければ なりません。

ローマ字教育の たてなおし

いまは 政治的な 理由から 義務教育で ローマ字が きちんと おしえられていません。そのため,一般人の ローマ字に かんする 知識は きわめて とぼしいのが 現状です。学校で ならう 知識 だけでは こどもが ローマ字で 日記を 書く ことも できません。おとなでも 日本語の 文章を ローマ字で 正しく 書ける 人は ほとんど いません。教育が ゆきとどいた 国の 中で,自分の 言語を ABCで 正しく 書けないのは 日本人 だけです。

いまの ローマ字教育は ひかえめに いっても 課題が あり,きびしく いえば 失敗 しています。その 原因は「ローマ字教育の指針」の 理念を 否定 している ことです。教育を ねじまげている 政治的な 圧力を とりのぞき,この 指針の 理念を みなおす ところから やりなおす べきです。

かな文字化・ローマ字化

日本語は おとった 言語では ありませんが,その 表記システムが まずい せいで さまざまな 社会問題を ひきおこしています。すでに 日本語は 公の 場で つかいにくく なってきています。そのうち 日本語は 公用語としての 役割を はたせなく なり,英語を 公用語に くわえなければ ならなく なるかも しれません。もし そうなったら,日本語は ますます おとろえていくでしょう。日本語を まなぶより 英語を まなぶ ほうが 有利なので,日本人が 日本語を みすてて しまうかも しれません。そう ならない ために,日本語の 表記システムを もっと まなびやすく つかいやすい 形に かえていく 必要が あります。

そこで かんがえられる 道が かな文字論ローマ字論です。日本語の 文章から 意識的に 漢字を すこしずつ へらして かな文字や ローマ字で 書く 場面を ふやしていき,かな文字文や ローマ字文の 読み書きに なれる 練習を はじめなければ なりません。

勘ちがいを あらためる

さまざまな 情報に アクセス しやすく なった 時代ですが,その 情報の 質が かならずしも 信頼に あたいするとは かぎりません。いまの ところ,ローマ字に かんする 情報は おしなべて 質が ひくく,世の中に いろいろな 勘ちがいが ひろまっています。これを あらためていく つとめも 必要です。

【読みもの】 斎藤秀一


斎藤秀一

山形県で 小学校の 教員を していた 斎藤秀一(さいとう ひでかつ)は,軍国主義教育に 批判的で あった こと,村の こどもや 青年に ローマ字を おしえた ことなどから,1932(昭和7)年に 検挙 されました。起訴猶予に なったものの 学校は やめさせられて しまい,それからは 言語学の 研究家として 活動 する ように なりました。みずから 専門の 雑誌を 発行 して,庄内地方の 方言などに かんする 論文を たくさん 書きました。

かな文字論者,ローマ字論者の たちばから,漢字の 問題を するどく ついた 文章も のこしています。

漢字はむずかしいから、何人にとっても不利な文字かというと、必ずしもそうではない。ある社会組織に於いては、知識を社会の一部が独占し、民衆をある低いレベル以上に賢くしないことが、その社会組織を維持する上に必要欠くべからざるものである。漢字は支配する方の側には甚だ都合のいい文字であり、かかる組織を否定せんとする支配される側、すなわち人民にとっては非常に不利な文字である。

佐藤治助「吹雪く野づらに ―エスペランティスト 斎藤秀一の生涯―」

かれの 主張の 中で ひときわ たかく 評価 されている ものに,日本の 言語政策に たいする 批判が あります。このころ 日本は 台湾,朝鮮,満州などに 日本語を おしつけていましたが,かれは これを 言語帝国主義だと いって きびしく 批判 しました。日本語の 改革を うったえていた 国語学者,かな文字論者,ローマ字論者などの 中には,日本の 事情や 効率主義に かたむきすぎて,これらの 領有地に つめたい 態度を とる 人も いたのですが,エスペランティストでも あった かれは 日本 だけに とらわれない ひろい 視野を もっていたのでしょう。かれの 言語理論は 民衆に よりそい 平和を もとめる 心に つらぬかれていました。

このような かんがえから,かれは プロレタリア文化運動にも ちかづいていきます。1938(昭和13)年,こうした 活動が 治安維持法に ひっかかり,逮捕,起訴 されます。当時の 裁判は 特高警察が でっちあげた 調書を 丸のみ する だけだったので,有罪は 確実でしたが,「転向宣言」で 執行猶予に して もらう 道が ありました。しかし,かれは それを えらびませんでした。留置場で だれにも 読めない 落書きが みつかり,特高が あわてて しらべてみたら,エスペラントで「非転向」と 書いてあった そうです。

秋田刑務所の 中で かれは 肺結核に かかり,たすかる みこみが なく なって 自宅に かえされました。32年の 生涯でした。