ローマ字の 目的

「ローマ字教育の指針」

ローマ字を つぎの ような ものと おもっている 人が おおいかも しれません。

これらは すべて まちがいです。もちろん,ローマ字を 英語や パソコンに 応用 する ことも できますし,すれば いいでしょう。しかし,それは 電話を モーニングコール(wake-up call)に つかうのと おなじ くらい ローマ字の 目的から はずれています。では,本当の ローマ字の 目的は なんでしょうか。


戦後 まもなく,当時の 文部省が「ローマ字教育の指針」で ローマ字教育の 目的を のべています。ここに ローマ字の 目的が しめされています。それは かんたんに まとめると つぎの 3項目です。

つまり,日本人が 日本語を ローマ字で 書く 社会が 想定 されていて,その 目的は 世界の 中で 日本が 発展 していく ため,日本の 産業や 文化を 発展 させる ため,日本語を つかいやすく する ため,そう いっていた わけです。これが ローマ字の 本当の 目的です。


日本語を ローマ字で 書く かんがえは 江戸時代の おわりから 明治時代の はじめに かけて うまれてきた ものです。じつは,漢字を やめて 日本語を 表音文字(かな文字 または ラテン文字)で 書く ように かえていく 基本的な 方針が 明治時代に きめられていました。かな文字と ローマ字の どちらが いいか など,研究・調査 しなければ ならない 課題は たくさん あり,どれだけ 時間が かかるかも わからない 壮大な 計画でしたが,めざす 方向 だけは あきらかでした。日本と 日本語の 将来を まじめに かんがえたら,漢字を やめる ほかに 道は ないからです。

日本語を かな文字や ラテン文字で 書く かんがえを かな文字論ローマ字論と いいますが,これらは 日本の 民主化を もとめる 思想と つながっています。じっさい,自由民権運動や 大正デモクラシーの 時代に かな文字運動や ローマ字運動が もりあがりました。戦後の 占領期も そういう 時期で,民主主義を とうとぶ かんがえが ひろまり,日本語の 民主化を うったえる 団体が いきおいづいていました。

当時の 空気を よく あらわしている 文章が あるので,一部を 引用 します。(漢字を 新字体に あらため,ルビを はぶきました。)

民主主義の運営を期するには一定の知能の発達を必要とする。その運営をさらに円滑化するためには一層大きく知識と知能とを高めねばならぬ。文明社会において知識と知能とを高める最も広汎かつ基礎的な直接手段は言葉と文字である。階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない。しかし、日本にあつては言葉記載の手段たる文字改革の必要は特に大きく、政治的な意味さへある。現在日本の常用文字たる漢字がいかにわが国民の知能発達を阻害してゐるかには無数の例証がある。特に日本の軍国主義と反動主義とはこの知能阻害作用を巧に利用した。八紘一宇などといふわけの解らぬ文字と言葉で日本人の批判能力は完全に封殺されてしまつた。

読売報知新聞の社説(1945年11月12日)

漢字の 知能阻害作用というのは 学校の「国語」で 漢字を おしえるのに 時間を つかいすぎて 読解力を つける ための 勉強が たりないという 意味では ありません。漢字 そのものが 正常な 思考や 判断を さまたげるという 意味です。

たとえば,日本では 教科書の 検閲が おこなわれています。日本国憲法は 検閲を みとめていませんし,ほとんどの 日本人も 検閲を わるい ことだと かんがえています。それにも かかわらず,教科書の 検閲は みのがされている だけで なく,むしろ よい ことだと おもわれています。なぜでしょうか。それは「検閲」を「検定」と いいかえているからです。

このように,むつかしい 漢字の ことばを 前に すると,一般人は いとも かんたんに 批判能力を うしなって しまいます。民主的な 社会を めざすので あれば,権力者に だけ 都合が いい 文字や ことばを なくして いかなければ なりません。日本語は 漢字かな交じり文で 書く もので,ローマ字は 外国人の ために ある ものだ。ほとんどの 人は こう おもっているかも しれませんが,それは いまの 日本政府に よって すりこまれた 感覚です。


この 下の 節で 3個の 目的に ついて もう すこし くわしく 説明 します。

日本語を 国際化 する

日本語を ローマ字で 書く ひとつめの 目的は 日本語の 国際化です。ローマ字は ラテン文字(ABC)で 書きます。ラテン文字は ローマ帝国が ラテン語を 書く ために もちいた 文字ですが,のちには 世界中で つかわれる ように なり,いまでは 世界共通の 文字と みなされています。ですから,ふつうは ラテン文字で 書かない 言語も ラテン文字で かける ように かんがえられている ことが あります。ある 言語の 表記法を ラテン文字で 書く ように かえる ことを「ラテン化」とか「ラテン文字化」と いいます。ローマ字の 目的の ひとつは 日本語表記の ラテン化です。

たとえば,ギリシャ語は ギリシャ文字で 書く 言語ですが ラテン文字でも 書けるように なっています。中国語は 漢字で 書きますが ラテン文字でも 書ける ように なっています。おなじ ように,日本語は 漢字と かな文字で 書くのが ふつうですが ラテン文字でも 書ける ように してあります。

これを もう 一歩 すすめて,日常の 日本語を ラテン文字で 書く ように すれば,日本語・日本文化・日本的な 価値観 などが 世界の 人々に 理解 されやすく なります。たとえば,日本の 新聞が ローマ字書きに なれば,日本に 興味を もつ 外国人なら 辞書を ひきながら それを 読むでしょう。これは 日本に とっても 世界に とっても おおきな メリットに なる はずですよく 日本語は むつかしい 言語だと いわれますが,これは 事実では ありません。日本語の 文法は 外国人でも 比較的 たやすく おぼえられます。発音も そんなに むつかしくは ありません。むつかしいのは 日本語の 表記システムや 日本の 文化です。日本語を ローマ字書きに すれば,表記システムが かんたんに なり,日本語は ほかの 言語と おなじ くらい やさしい 言語に なります。

日本語を 合理化 する

ローマ字の ふたつめの 目的は 日本語の 表記システムを 合理化 する ことです。これには 能率化の 側面と 民主化の 側面が あります。産業に おける 能率アップと 教育に おける 脱エリート化です。

すすんだ 国が 事務処理に タイプライターを つかう ように なった ころ,日本人は 複雑な 漢字を 性能の わるい 筆記具で 手書き していました。また,学校の「国語」は 漢字の 学習に 時間が うばわれて 日本語 そのものの 学習が おろそかに なりがちでした。そのため,一般人は 日本語を つかいこなす 能力が 十分で なく,ごく 一部の エリート だけが 芸術的な 日本語を もてあそんでいました。日本語の 表記システムが かかえている 非能率性と 非民主性に 産業界や 教育界は 頭を かかえていた わけです。もし 日本語を ローマ字で 書く 習慣が ひろく ゆきわたれば,たくさんの 漢字を つかわずに すむので,日本の 社会は 能率的で 民主的に なる はずです。


この 問題は ローマ字書きなんか しなくても テクノロジーの 進歩に よって すでに 解決 しているという 主張が あります。たしかに,いまは タイプライターより もっと 便利な 機械で 文章が 書けます。面倒な 手書き作業から ほぼ 解放 され,漢字の 字体や 筆順を 正確に おぼえる 必要も なく なりました。昔に くらべて 漢字の 負担が かるく なったのは 事実です。でも,よく かんがえてみれば,漢字を 書くのが 楽に なった だけです。読む とき,はなす とき,きく ときの 負担は かわりませんし,たくさんの 漢字・漢語を おぼえなければ ならない ことも おなじです。日本人が 日本語を つかいこなす 能力も ひくい ままです。

それどころか,どんな 漢字も 機械で たやすく うちだせる ように なった ため,むつかしい 漢字を つかいたがる 人が ふえました。漢字の 知識と 日本語能力を とりちがえた わるい 流行の せいで,むつかしい 漢字だらけの わかりにくい 文章を 書く 人が おおく なっていますむつかしい 漢字というのは 熟語 だけでは ありません。「淹(い)れる」「戦(そよ)ぐ」「糺(ただ)す」などの むつかしい 訓読みも あります。わかりにくい 文章が おおくなったのは インターネットの 発達で しろうとの 文章を 読む 機会が ふえた ことも 理由ですが,それ だけでは ないでしょう。


いろいろな 言語の メニューバー

図は 表計算ソフトの メニューバーを いろいろな 言語で 表示 させた ものです。下線つきの 文字を みて ください。日本語の メニューバーには なぜか 英語と おなじ 文字が つかわれています。そのため,日本語の ことばと つながりが なく,おぼえにくくて 不便です。表記システムが 不合理で 機械との 相性が わるいと さまざまな 不便を しいられます。日本語の 表記システムは 時代に とりのこされつつ あるのが わかるでしょう。


情報を つたえる 道具としての 言語,社会の インフラとしての 言語は 合理的で なければ なりません。言語 そのものを ねじまげては いけませんが,言語を 記述 する 方法は 積極的に 合理化 していく べきです。漢字よりも かな文字が,かな文字よりも ラテン文字が(道具として)すぐれている ことは いうまでも ありません。それは 世界の 文字が どの ように 発展 してきたかを かんがえると よく わかります数千年前は 漢字と おなじ しくみの 表語文字が 世界の あちこちで つかわれていました。けれども,表語文字は つかいにくいので,それが だんだん 改良 されていき,そうして 表音文字が うまれました。かな文字の もとが 漢字で ある ように,ABCも もとを たどれば 表語文字です。それが 文字の 歴史です。いまでは 世界の ほとんどの 言語が 表音文字 だけで 書かれています。日本語を ローマ字で 書くなんて かんがえられないと おもう 人が いるかも しれませんが,じつは それに ちかい ことを すでに やっています。それは ローマ字入力です。ローマ字入力を つかっている 人は 漢字を 書いている つもりで じっさいには ローマ字の ような ものを 入力 しています。もし かな漢字変換を やめれば,ローマ字文を 書いているのと ほとんど おなじです。同音異義語を へらして,ローマ字文を 読むのに なれれば,日本語を ローマ字 だけで 書ける ように なります。

社会の 発展を うながす ため,表記システムは 意識的に かえていく べきです。先進国で ときどき 正書法が あらためられるのは そのためです。ところが 日本は,さまざまな 社会問題の もとに なっている だけで なく,時代に とりのこされそうな 表記システムを そのままに しています。これでは 世の中を よく する ために 力を つくしていると いえません。

日本語を つかいやすく する

みっつめの 目的は 日本語を つかいやすく する ことです。そう すれば 日本語は 発展 していきます。日本語を ローマ字で 書く ように すれば,日本語は まなびやすく つかいやすく なるでしょう。

ローマ字は ことばの 音声を ほぼ そのまま 書きあらわす 表記システムです。そのため,ローマ字で 書くと ことばの 発音が 意識 しやすく なり,活用・音便・お国ことばの 特徴 なども 理解 しやすく なります。ローマ字文は 分かち書きを するので 単語が 認識 しやすく なります。ローマ字を つかえば 文法や 語源の 解説も わかりやすく なります。このように,ローマ字は 日本語の 研究,「国語」の 勉強,外国人に 日本語を おしえる 日本語教育 などにも 役だちます。


ローマ字を つかうと 日本語が わかりやすく なります。小学生にも わかる 例を あげると,「すみません」が「すいません」に なって しまう 原理が あります。これを ローマ字に すると,m が ぬけおちた ことが よく わかります。これは 発音を 楽に する ためだと かんがえられます。「春雨」の 読みかたは〈ハルアメ〉では なく〈ハルサメ〉です。これは 母音が つづくのを さけようと して s が はさみこまれたからだと かんがえられます。

su(m)imasen(スミマセン)
suimasen(スイマセン)
haruame(ハルアメ)
haru(s)ame(ハルサメ)

ローマ字なら,「目」「瞼(目蓋)」「見る」が すべて m で はじまり,「手」「轡(手綱)」「取る」が すべて t で はじまる 偶然(?)に 気づく ことも できるでしょう。

me, mabuta, miru(目,瞼,見る)
te, tazuna, toru(手,轡,取る)

共通語と 東北地方の お国ことばが どのように ちがっているかも たやすく 説明 できます。これは かな文字書きでも いいのですが,ちがいの 本質が 子音に ある ことを しめせる 点で ローマ字の ほうが すぐれています。

hata, hada(旗)
ito, ido(糸)
take, tage(竹)
hako, hago(箱)

ちいさい こどもが「ポケット」を「コペット」と いいまちがえる 理屈も ローマ字で かんがえると よく わかるでしょう。

poketto(ポケット)
kopetto(コペット)

学校の「国語」で ローマ字を おしえている 理由は これです。ローマ字の 勉強は 日本語の 勉強です。ローマ字を 勉強 すれば,日本語を より ふかく 理解 できる ように なります。

「ローマ字教育の指針」それから

文部省の 指針では 念を おす ように,つぎの ことを のべています。

[…]英語その他の外国語を授ける前提として,ローマ字による国語の読み書きを教えようという考え方もあるが,これは,まったく誤りであって,ローマ字教育はあくまでも国語教育のために行われるものとして考えなければならない。

いま,ローマ字に かんして このような 認識を もっている 人は あまり いないでしょう。それも 当然です。日本の 政府は とっくの 昔に かんがえを かえていて,「ローマ字教育の指針」の 理念を すてさっているからです。そのため,いまは なんの ために 学校で ローマ字を 勉強 するのか わかりにくく なっています「ローマ字教育の指針」は 漢字と かな文字による 日本語教育を 否定 していません。日本語は ローマ字で 書けと いっている わけでも なく,日本語の 書きことばを 将来的に どのように していくかは 国民自身が かんがえる ことで あると しています。ただ,日本と 日本語を 発展 させていく ためには,日本語で くらしている すべての 人に ローマ字の 知識が 必要だと いっている だけです。ところが,一部の 保守派は この かんがえに はげしく 反発 しました。そして,1960年代に 国語審議会の ある 委員が「国語は、漢字かなまじりをもって、その表記の正則とする」という 提案を して,最終的に 文部大臣から「今後の審議に当っては当然のことながら国語の表記は漢字かな交り文によることを前提とし……」という ことばを ひきだす ことに 成功 しました。このとき「ローマ字教育の指針」の 理念は 否定 されたと いえます。明治時代から かんがえつづけてきた 国の 基本政策が,なんの 議論も なしに,なかった ことに されたのでした。このころから ローマ字教育は 政治の 力で おさえつけられる ように なり,すっかり おとろえて しまいました。こういう いきさつから,いまの 文部科学省は ローマ字の 勉強が 日本語の 勉強だと はっきり いう ことが できなく なっています。じっさい,学習指導要領でも そうとは いっておらず,ローマ字教育に 別の 理由づけを しています。そのため,教師も 保護者も なんの ために ローマ字を 勉強 するのか よく わかっておらず,「英語」の ためとか ローマ字入力の ためとか,そんな かんちがいが ひろまっています。あげくの はてには,「英語」の 役に たたない ローマ字 なんか おしえるなという 声まで でてくる ありさまです。いまや ローマ字を ただしく 書ける 人は ほとんど いません。これは 国際的にも はずかしい ことです。日本人は 高等教育を うけても 自分の 言語を ABCで 書けません。日本人が 書く ローマ字は つづりが ばらばらで,まちがって 書いている 人が おおいのは 外国人の 目にも あきらかです。インターネットの 時代に なり,この 事実は 世界に しれわたって わらいの 種に なっています。


日本政府の 方針は かわって しまいましたが,ローマ字を まなぶ ことの 大切さは かわりません。この サイトは,いまの 日本政府の かんがえと ちがって,「ローマ字教育の指針」が かかげていた 理念を まもりつたえていく たちばで つくられています。

【読みもの】 ら抜きことば


ぜんぶ たべれる?

日本語の 変化で よく 話題に なる ものに,「みられる」「たべられる」を「みれる」「たべれる」に する「ら抜きことば」が あります。日本語の みだれだと いって これを せめたてる 人も いますが,それは はやとちりです。「ら抜きことば」は 日本語が すこしずつ かわっていく 現象の ひとつです。

「ら抜きことば」が どのように して できたのかは 可能動詞を つくる 規則で たやすく 説明 できます。たとえば,「読む」「書く」という 動詞に[可能]の 意味を つけくわえる とき,はじめは 助動詞「れる」を つけて「読まれる」「書かれる」と いっていたのですが,室町時代に これを みじかく した「読める」「書ける」という 形が うまれ,ひろまっていきました。これが 可能動詞です。ローマ字で 書くと,ar が ぬけて みじかく なった ことが わかります。

yom(ar)eru(読まれる)
yomeru(読める)
kak(ar)eru(書かれる)
kakeru(書ける)

もともと この 現象が おこるのは 五段活用の 動詞に かぎられていたのですが,明治時代から 大正時代に かけて 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも それが おこる ように なってきました。

mir(ar)eru(見られる)
mireru(見れる)
der(ar)eru(出られる)
dereru(出れる)
kor(ar)eru(来られる)
koreru(来れる)

「ら抜きことば」は こうして できたと かんがえられています。若者の あいだの 流行では なく,100年も 前から あった 現象です。そして,本当は「ら抜き」では なく「ar抜き」です。

ひとつの 法則が より おおくの 動詞に あてはまる ように なったのですから,これは 合理的な 変化です。助動詞「れる/られる」は 意味が ひろすぎて 誤解を まねく ことも ありましたが,「ら抜きことば」の おかげで 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも[可能]の 意味を はっきり しめせる ように なりました。日本語は より つかいやすく わかりやすく なったのですいまは まだ すべての 一段動詞が「ar抜き」に なる わけでは ありません。たとえば,ラ行下一段活用の 動詞「いれる」は,「いれれる」が 発音 しにくい せいか,あまり「ar抜き」に なりません。4拍 以上の ながい 動詞「かえりみる」なども そうです。サ行変格活用の「する」も ふつうは「ar抜き」に なりません。「する」に[可能]の 意味を つけくわえる ときは,助動詞「れる」を つけた「される」を つかわず,別の ことば「できる」を つかうからです。

いまの ところ「ら抜きことば」は ただしい 日本語と みなされて いませんが,そのうち これが ふつうに なって,教科書で つかわれる ように なるかも しれません。