ローマ字の 目的
RÔMAZI NO MOKUTEKI

「ローマ字教育の指針」
"Rômazi kyôiku no sisin"

ローマ字とは 何か?
Rômazi towa nani ka?

ローマ字を つぎの ような ものだと おもって いる 人が います。

これらは すべて まちがいです。ローマ字は 日本語の 表記法の ひとつで,日本語の 文章を ABCで かく 方法です。また,その 方法で かかれた 日本語です。


この 事実は 何百年も 前に はじめて ローマ字が つくられた ときから いまに いたるまで かわって いません。もともと ローマ字は 外国人が 日本語を よむ ために 日本語に つけた ふりがな みたいな ものでした。それが 日本に とりいれられて,日本人が 日本語を かく ために つかう ように なりました。外国人の 道具だった ものが 日本人の 道具に かわり,ローマ字を つかう 目的も かわりました。けれども,ローマ字が 日本語の 文章を かく もので ある 事実は かわって いません。

いまの ところ,日本語の 文章を すべて ローマ字で かく ことは 一般に おこなわれて いません。しかし,ローマ字は さまざまな ところで つかわれて います。人名・地名・駅名 などの 名前だけで なく,映画・音楽・書籍・論文の タイトル,飲食店の メニューメールアドレス・URLファイル名・フォルダ名 などの 語句や,外国人あての メール,チャット,町内会の おしらせ などの 文章も ローマ字で かく ことが あるでしょう。名前も 語句も 文章の 一部ですから,ローマ字は 日本語の 文章を かく もので あると いえます。


この ローマ字は 英語教育や パソコンに 応用 できますし,すれば いいでしょう。しかし,それは 電話を モーニングコール(wake-up call)に つかう ような もので,本当の つかいみちでは ありません。

天から火を盗んだプロメテウス
「天から火を盗んだプロメテウス」 (昔の 教科書)

昔は このような 教科書で ローマ字教育が おこなわれて いました。これは 小学校 4年生の ものです。いまは 昔の ような ローマ字教育が おこなわれて いないので,ローマ字が 日本語の 文章を かく もので ある 事実を しらない 人が います。

ローマ字の 目的
Rômazi no mkuteki

では,日本語の 文章を ABCで かく 目的は なんでしょうか。戦後 まもなく,当時の 文部省が「ローマ字教育の指針」で ローマ字教育の 目的を のべて いて,そこに ローマ字の 目的が しめされて います。それは つぎの みっつに まとめられます。

ここでは 日本人が 日本語の 文章を ローマ字でも かける ように なって いる 未来が 想定 されて いて,それは 世界の 中で 日本が 発展 して いく ため,日本の 産業や 文化を 発展 させる ため,日本語を 日本語らしく かく ため,そう いって いた わけです。これを もっと かんたんに いえば,日本語を 国際的で 合理的で 日本語らしい かきかたに する ことです。これが ローマ字の 目的です。

ローマ字を 小学校の「国語」で おしえる 理由や 訓令式を おしえる 理由も ここから かんがえると よく わかります。ローマ字は 日本語で くらして いる すべての 人が しって いなければ ならない 日本語の 基礎知識だからです。

日本語の 国際的な 表記法で ある ローマ字は 外国人に とっても なくては ならない ものです。動画の 字幕,カラオケの 歌詞を ローマ字で だして ほしいと いう 声が ある ことから わかる ように,外国人が よめる 文字で 日本語を かく ローマ字は 世界の 人々からも もとめられて います。

ローマ字と 民主主義
Rômazi to minsyu syugi

日本語を ローマ字で かく かんがえは 江戸時代の おわりから 明治時代の はじめに かけて うまれて きた ものです。じつは,漢字を やめて 日本語を 表音文字(かな文字 または ラテン文字)で かく ように かえて いく 方針が 明治時代に きめられて いました。かな文字と ローマ字の どちらが いいか など,研究・調査 しなければ ならない 課題は たくさん あり,どれだけ 時間が かかるかも わからない 壮大な 計画でしたが,めざす 方向だけは あきらかでした。日本と 日本語の 将来を まじめに かんがえたら,漢字を やめる ほかに 道は ないからです。


日本語を かな文字や ラテン文字で かく かんがえを かな文字論ローマ字論と いいますが,これらは 日本の 民主化を もとめる 思想と つながって います。じっさい,自由民権運動や 大正デモクラシーの 時代に かな文字運動や ローマ字運動が もりあがりました。戦後の 占領期も そういう 時期で,民主主義を とうとぶ かんがえが ひろまり,日本語の 民主化を うったえる 団体が いきおいづいて いました。

当時の 空気を よく あらわして いる 文章が あるので,一部を 引用 します。(漢字を 新字体に あらため,ルビを はぶきました。)

民主主義の運営を期するには一定の知能の発達を必要とする。その運営をさらに円滑化するためには一層大きく知識と知能とを高めねばならぬ。文明社会において知識と知能とを高める最も広汎かつ基礎的な直接手段は言葉と文字である。階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない。しかし、日本にあつては言葉記載の手段たる文字改革の必要は特に大きく、政治的な意味さへある。現在日本の常用文字たる漢字がいかにわが国民の知能発達を阻害してゐるかには無数の例証がある。特に日本の軍国主義と反動主義とはこの知能阻害作用を巧に利用した。八紘一宇などといふわけの解らぬ文字と言葉で日本人の批判能力は完全に封殺されてしまつた。

読売報知新聞の社説(1945年11月12日)

漢字の 知能阻害作用と いうのは 学校の「国語」で 漢字を おしえるのに 時間を つかいすぎて 読解力や 表現力を つける ための 勉強が たりないと いう 意味では ありません。漢字 そのものが 正常な 思考や 判断を さまたげると いう 意味です。

たとえば,日本では 教科書の 検閲が おこなわれて います。日本国憲法は 検閲を みとめて いませんし,ほとんどの 日本人も 検閲を わるい ことだと かんがえて います。それにも かかわらず,教科書の 検閲は みのがされて います。なぜでしょうか。それは「検閲」と いわないで「検定」と いって いるからですもともと 教科書は 民間の 会社が 中身を つくる 検定制度に なって いましたが,「教科書疑獄事件」を きっかけに 国定に なり,教科書の 中身を 国が きめる しくみに なりました。これが 政治的に 悪用 されて あやまった 教育が おこなわれ,日本は とりかえしの つかない 失敗を しました。そこで,戦後に この しくみは 検定制度に もどされました。ところが,これも 政治的に 悪用 される ように なって しまい,いまでは 検定の 名の もとに 事実上の 検閲が おこなわれて います。

このように,むつかしい 漢字の ことばを 前に すると,一般人は いとも かんたんに 批判能力を うしなって しまいます。民主的な 社会を めざすので あれば,権力者にだけ 都合が いい 文字や ことばを なくして いかなければ なりません。


ところが,占領期が おわって 日本が 主権を とりもどしてから しばらく たつと,政府は かんがえを かえて しまいました。言語政策も 反動的に なり,ローマ字は おさえつけられる ように なりました。いまの 政府は ローマ字が 日本語の 文章を かく もので ある 事実を みとめて いません。日本語は 漢字仮名交じり文で かく ものに きまって いるとか,ローマ字は 外国人の ために ある ものだとか,そんな ふうに おもって いる 人は おおいでしょう。しかし,それは いまの 政府に よって すりこまれた 感覚に すぎません日本語を ローマ字で かく かんがえは もりあがる 時代と おさえつけられる 時代の ふたつを いったり きたり して います。明治・大正の 時代は ローマ字が もりあがった 時代でしたが,昭和に はいって すこし たった ころから 日本が 戦争に つきすすんで いくまでの 時代は ローマ字が はげしく 弾圧 されました。戦争が おわって 民主主義の 時代に なると ふたたび ローマ字は もりあがりましたが,政治の 世界で 保守派が いきおいを とりもどすと またもや ローマ字は おさえつけられる ように なり,ちかごろは その ながれが ますます はげしく なって います。


この 下の 節で みっつの 目的に ついて もう すこし くわしく 説明 します。

日本語を 国際化 する
Nihongo o kokusaika suru

日本語を ローマ字で かく ひとつめの 目的は 日本語の 国際化です。ローマ字は ラテン文字(ABC)で かきます。ラテン文字は ローマ帝国が ラテン語を かく ために もちいた 文字ですが,のちには 世界中で つかわれる ように なり,いまでは 世界共通の 文字と みなされて います。ですから,ふつうは ラテン文字で かかない 言語も ラテン文字で かける ように かんがえられて いる ことが あります。ある 言語の 表記法を ラテン文字で かく ように かえる ことを「ラテン化」とか「ラテン文字化」と いいます。ローマ字の 目的の ひとつは 日本語表記の ラテン化です。

たとえば,ギリシャ語は ギリシャ文字で かく 言語ですが ラテン文字でも かけるように なって います。中国語は 漢字で かきますが ラテン文字でも かける ように なって います。おなじ ように,日本語は 漢字と かな文字で かくのが ふつうですが ラテン文字でも かける ように して あります。

これを もう 一歩 すすめて,日常の 日本語を ラテン文字で かく ように すれば,日本語・日本文化・日本的な 価値観 などが 世界の 人々に 理解 されやすく なります。たとえば,日本の 新聞が ローマ字がきに なれば,日本に 興味を もつ 外国人なら 辞書を ひきながら それを よむでしょう。これは 日本に とっても 世界に とっても おおきな メリットに なる はずですよく 日本語は むつかしい 言語だと いわれますが,これは 事実では ありません。日本語の 文法は 外国人でも 比較的 たやすく おぼえられます。発音も そんなに むつかしくは ありません。むつかしいのは 日本語の 表記システムや 日本の 文化です。日本語は ローマ字で かけば 表記システムが かんたんに なって ほかの 言語と おなじ くらい やさしい 言語に なります。

ちかごろは 外国との 関係だけで なく,国内でも 国際化の 問題を かんがえる 必要が でて きました。外国人の 住民や 旅行者が ふえて きたからです。とくに,日本に すんで いる 外国人の 中には 漢字仮名交じり文の よみかきが できない 人も おおいので,こういう 人たちに たいする なんらかの 手あてが 必要です。この ような 場面でも ローマ字が 役に たつでしょう。

日本語を 合理化 する
Nihongo o gôrika suru

ローマ字の ふたつめの 目的は 日本語の 表記システムを 合理化 する ことです。これには 能率化の 側面と 民主化の 側面が あります。産業に おける 能率アップと 教育に おける 脱エリート化です。

すすんだ 国が しごとに タイプライターを つかう ように なった ころ,日本人は 複雑な 漢字を 性能の わるい 筆記具で 手がき して いました。また,学校の「国語」は 漢字の 学習に 時間が うばわれて 日本語 そのものの 学習が おろそかに なりがちでした。そのため,一般人は 日本語を つかいこなす 能力が じゅうぶんで なく,ごく 一部の エリートだけが 芸術的な 日本語を もてあそんで いました。日本語の 表記システムが かかえて いる 非能率性と 非民主性に 産業界や 教育界は 頭を かかえて いた わけです。もし 日本語を ローマ字で かく 習慣が ひろく ゆきわたれば,たくさんの 漢字を つかわずに すむので,日本の 社会は 能率的で 民主的に なる はずです。


この 問題は ローマ字がき なんか しなくても テクノロジーの 進歩に よって すでに 解決 して いると いう 主張が あります。たしかに,いまは タイプライターより もっと 便利な 機械で 文章が かけます。面倒な 手がき作業から ほぼ 解放 され,漢字の 字体や 筆順を 正確に おぼえる 必要も なく なりました。昔に くらべて 漢字の 負担が かるく なったのは 事実です。でも,よく かんがえて みれば,漢字を かくのが 楽に なっただけです。よむ とき,はなす とき,きく ときの 負担は かわりませんし,たくさんの 漢字・漢語を おぼえなければ ならない ことも おなじです。日本人が 日本語を つかいこなす 能力も ひくい ままです。

それどころか,どんな 漢字も 機械で たやすく うちだせる ように なった ため,むつかしい 漢字を つかいたがる 人が ふえました。漢字の 知識と 日本語能力を とりちがえた わるい 流行の せいで,むつかしい 漢字だらけの わかりにくい 文章を かく 人が おおく なりました。漢字を つかって 自分を えらく みせかけたり 他人を みくだしたり する 人まで いるのですから,民主的な 社会を めざす ときに 漢字の わざわいは みすごせませんむつかしい 漢字と いうのは 熟語だけでは ありません。「淹(い)れる」「戦(そよ)ぐ」「糺(ただ)す」などの むつかしい 訓よみも あります。わかりにくい 文章が おおくなったのは インターネットの 発達で しろうとが かいた 文章を よむ 機会が ふえた ことも 理由ですが,それだけでは ないでしょう。


いろいろな 言語の メニューバー

図は 表計算ソフトの メニューバーを いろいろな 言語で 表示 させた ものです。下線つきの 文字を みて ください。日本語の メニューバーには なぜか 英語と おなじ 文字が つかわれて います。そのため,日本語の ことばと つながりが なく,おぼえにくくて 不便です。表記システムが 不合理で 機械との 相性が わるいと さまざまな 不便を しいられます。日本語の 表記システムは 時代に とりのこされつつ あるのが わかるでしょう。


情報を つたえる 道具と しての 言語,社会の インフラと しての 言語は 合理的で なければ なりません。言語 そのものを ねじまげては いけませんが,言語を 記述 する 方法は 積極的に 合理化 して いく べきです。漢字よりも かな文字が,かな文字よりも ラテン文字が(道具と して)すぐれて いる ことは いうまでも ありません。それは 世界の 文字が どの ように 発展 して きたかを かんがえると よく わかります数千年前は 漢字と おなじ しくみの 表語文字が 世界の あちこちで つかわれて いました。けれども,表語文字は つかいにくいので,それが だんだん 改良 されて いき,そうして 表音文字が うまれました。かな文字の もとが 漢字で ある ように,ABCも もとを たどれば 表語文字です。それが 文字の 歴史です。いまでは 世界の ほとんどの 言語が 表音文字だけで かかれて います。日本語を ローマ字で かく なんて かんがえられないと おもう 人が いるかも しれませんが,じつは それに ちかい ことを すでに やって います。それは ローマ字入力です。ローマ字入力を つかって いる 人は 漢字を かいて いる つもりで じっさいには ローマ字の ような ものを 入力 して います。もし かな漢字変換を やめれば,ローマ字文を かいて いるのと ほとんど おなじです。同音異義語を へらして,ローマ字文を よむのに なれれば,日本語は ローマ字だけで かける ように なります。

社会の 発展を うながす ため,表記システムは 意識的に かえて いく べきです。外国で ときどき 正書法が あらためられるのは このためです。ところが 日本は,さまざまな 社会問題の もとに なって いるだけで なく,時代に とりのこされそうな 表記システムを そのままに して います。これでは 世の中を よく する ために 力を つくして いると いえません。

日本語らしい かきかた
Nihongo-rasii kakikata

みっつめの 目的は 日本語を 日本語らしく かく ことです。日本語を ローマ字がきに すれば 漢字と かな文字を まぜて かくよりも 日本語の 性質に あった 日本語らしい かきかたに なり,日本語は まなびやすく つかいやすく なります。そう すれば,日本語 そのものも 発展 して いくでしょう。

ローマ字は ことばの 音声を ほぼ そのまま かきあらわす 表記システムです。そのため,ローマ字で かくと ことばの 発音を 意識 しやすく なり,活用・音便・お国ことばの 特色 なども わかりやすく なります。ローマ字文は 分かち書きを するので 単語を 認識 しやすく なり,「ぎなた読み」が おこりません。ローマ字を つかえば 文法や 語源の 解説も わかりやすく なります。このように,ローマ字は 日本語の 研究,「国語」の 勉強,外国人に 日本語を おしえる 日本語教育 などにも 役だちます。


ローマ字表記が 日本語を わかりやすく する 例を いくつか しめします。

小学生でも わかるのは「すみません」「すいません」に なって しまう 原理です。これを ローマ字に すると,m が ぬけおちた ことが よく わかります。これは 発音を 楽に する ためだと かんがえられます。「春雨」の よみかたは【ハルアメ】で なく【ハルサメ】です。これは 母音が つづくのを さけようと して s が はさみこまれたからだと かんがえられます。

su(m)imasen(スミマセン)
suimasen(スイマセン)
haruame(ハルアメ)
haru(s)ame(ハルサメ)

ローマ字なら,「目」「瞼(目蓋)」「見る」が すべて m で はじまり,「手」「轡(手綱)」「取る」が すべて t で はじまる 偶然(?)に 気づく ことも できるでしょう。

me, mabuta, miru(目・瞼・見る)
te, tazuna, toru(手・轡・取る)

共通語と 東北地方の お国ことばが どのように ちがって いるかも たやすく 説明 できます。これは かな文字表記でも いいのですが,ちがいの 本質が 子音に ある ことを しめせる 点で ローマ字の ほうが すぐれて います。

hata, hada(旗)
ito, ido(糸)
take, tage(竹)
hako, hago(箱)

ちいさい こどもが【ポケット】【コペット】と いいまちがえる 理屈も ローマ字で かんがえると よく わかるでしょう。

poketto(ポケット)
kopetto(コペット)

学校の「国語」で ローマ字を おしえる 理由は これです。ローマ字の 勉強は 日本語の 勉強です。ローマ字を 勉強 すれば,日本語を より ふかく 理解 できる ように なります。[よみもの]の「ら抜き言葉」「てふてふ」も およみ ください。

「ローマ字教育の指針」それから
"Rômazi kyôiku no sisin" sore kara

文部省の 指針では 念を おす ように,つぎの ことを のべて います。

英語その他の外国語を授ける前提として,ローマ字による国語の読み書きを教えようという考え方もあるが,これは,まったく誤りであって,ローマ字教育はあくまでも国語教育のために行われるものとして考えなければならない。

1950年代に もっとも 採択部数が おおかった 教科書(Rômazi Kokugo)の 指導書も つぎの ように いって いました。

英語を学ぶための予備として Rômazi を学ぶのではないことは,ハッキリ話しておく必要がある。

いま,ローマ字に かんして このような 認識を もって いる 人は すくないでしょう。それは しかたが ありません。すでに のべた ように,政府が とっくの 昔に かんがえを かえて いて,ローマ字を 日本語の 表記法とは みなして いないからです。「ローマ字教育の指針」の 理念は 完全に わすれられたと いえます。

ローマ字は 日本語の 文章を かく ために あると いう 事実が わすれられた 結果,学校で ローマ字を まなぶ 理由が わからなく なりました。とくに 訓令式を まなぶ 理由は まったく わからないでしょう。じっさい,小学生の 保護者や 英語教師の おおくは それが わかって いません。そのため,ローマ字教育や 訓令式の 廃止を うったえる 意見が SNSに あふれかえって,手が つけられなく なって います「ローマ字教育の指針」は 日本語を ローマ字で かけとまでは いって いません。(日本語の かきことばを 将来的に どのように して いくかは 国民自身が かんがえる ことで あると して います。)日本語で くらして いる すべての 人に 日本語の 文章を ローマ字で かけるだけの 知識が 必要だと いって いるだけです。ところが,一部の 保守派は この かんがえに はげしく 反発 しました。1960年代に なると,国語審議会の ある 委員が「国語は、漢字かなまじりをもって、その表記の正則とする」と 提案 し,文部大臣が「今後の審議に当っては当然のことながら国語の表記は漢字かな交り文によることを前提とし……」と 発言 するまでに なりました。こうして「ローマ字教育の指針」の 理念は 完全に 否定 されました。ローマ字教育も 政治の 力で おさえつけられて おとろえて いきました。こういう いきさつから,文部科学省は ローマ字の 勉強が 日本語の 勉強だと はっきり いわなく なって います。じっさい,学習指導要領でも そうとは いわないで ローマ字教育に 別の 理由づけを して います。そのため,保護者も 教師も ローマ字教育の 本当の 目的を しらず,「英語」や ローマ字入力の ためだと おもって います。しかも,「英語」で おしえる ローマ字が あまり 役に たって いない ことや,ローマ字の かきかたと ローマ字入力の キーの おしかたが くいちがって いる ことには みんな 気づいて いるので,まるで ローマ字教育が 目的に あわない ことを やって いる ように みえて しまい,信用を うしなって います。ローマ字を ただしく かける 人も ほとんど いなく なりました。中国人は ローマ字を かけるのに,日本人は それが できません。インターネットの 時代に なって,日本人が 自分の 言語を ただしく かけない 事実は 世界に しれわたり,わらいの 種に なって います。


政府の 方針は かわりましたが,ローマ字が 日本語の 基礎知識で ある 事実は かわって いません。文部科学省の 説明は かわりましたが,学校で ローマ字を まなぶ 本当の 理由は かわって いません。

はじめに のべた ように,人名・地名・駅名と いった 名前の ほかにも ローマ字で かいて いる ものは たくさん あります。日本に すんで いる 外国人の 中には 日本語で 会話が できるけれども 漢字仮名交じり文は よめない 人が 大勢 います。そして,そういう 人は これから どんどん ふえて いくと かんがえられます。そのため,すくなくとも 公の 表示を 漢字かな表記と ローマ字表記の 2本だてに する 二表記社会の 実現が のぞまれて います。インターネットの 発達で 日本人と 外国人が 文字で 交流 する 場面も ふえました。国際的な まじわりが おおい 時代に なって,ローマ字の 重要性は ますます たかまって いると いえます。

この サイトは,いまの 政府の かんがえと ちがい,「ローマ字教育の指針」が かかげて いた 理念を まもりつたえて いく たちばで つくられて います。

[よみもの]ら抜き言葉
[Yomimono] Ra-nuki-kotoba


ぜんぶ たべれる?

日本語の 変化で よく 話題に なる ものに,「みられる」「たべられる」「みれる」「たべれる」に する「ら抜き言葉」が あります。日本語の みだれだと いって これを せめたてる 人も いますが,それは はやとちりです。「ら抜きことば」は 日本語が すこしずつ かわって いく 現象の ひとつです。

「ら抜き言葉」が どのように して できたのかは 可能動詞を つくる 規則で たやすく 説明 できます。たとえば,「読む」「書く」と いう 動詞に[可能]の 意味を つけくわえる とき,はじめは 助動詞「れる」を つけて「読まれる」「書かれる」と いって いたのですが,室町時代に これを みじかく した「読める」「書ける」と いう 形が うまれ,ひろまって いきました。これが 可能動詞です。ローマ字で かくと,ar が ぬけて みじかく なった ことが わかります。

yom(ar)eru(読まれる)
yomeru(読める)
kak(ar)eru(書かれる)
kakeru(書ける)

もともと この 現象が おこるのは 五段活用の 動詞に かぎられて いたのですが,明治時代から 大正時代に かけて 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも それが おこる ように なって きました。

mir(ar)eru(見られる)
mireru(見れる)
der(ar)eru(出られる)
dereru(出れる)
kor(ar)eru(来られる)
koreru(来れる)

「ら抜き言葉」は こうして できたと かんがえられて います。若者の あいだの 流行では なく,100年も 前から あった 現象です。そして,本当は「ら抜き」で なく「ar抜き」です。

ひとつの 法則が より おおくの 動詞に あてはまる ように なったのですから,これは 合理的な 変化です。助動詞「れる/られる」は 意味が ひろすぎて 誤解を まねく ことも ありましたが,「ら抜き言葉」の おかげで 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも[可能]の 意味を はっきり しめせる ように なりました。日本語は より つかいやすく わかりやすく なったのですいまは まだ すべての 一段動詞が「ar抜き」に なる わけでは ありません。たとえば,ラ行下一段活用の 動詞「いれる」は,「いれれる」が 発音 しにくい せいか,あまり「ar抜き」に なりません。4拍 以上の ながい 動詞「かえりみる」なども そうです。サ行変格活用の「する」も ふつうは「ar抜き」に なりません。「する」に[可能]の 意味を つけくわえる ときは,助動詞「れる」を つけた「される」を つかわず,別の ことば「できる」を つかうからです。

いまの ところ「ら抜き言葉」は ただしい 日本語と みなされて いませんが,そのうち これが ふつうに なって,教科書で つかわれる ように なるかも しれません。