ローマ字の なりたち
RÔMAZI NO NARITATI

外国人の ローマ字
Gaikokuzin no Rômazi

はじめて ローマ字を つくったのは 日本人では ありません。初期の ローマ字は すべて 外国人が 外国人の ために つくった ものです。

ポルトガル式・オランダ式
Porutogaru-siki, Orandasiki


島津斉彬

16世紀の 末に イエズス会の 宣教師が 日本に やって きました。かれらは 布教の ために 日本語を 勉強 して いました。外国語を 勉強 する とき,日本人は 外国語の よみかたを カタカナで かいたり しますが,それと おなじ ように,かれらは 日本語の よみかたを ABCで かきました。これが ローマ字の はじまりです。かれらは ポルトガル語を つかって いたので,その ローマ字は つづりかたが ポルトガル語風でした。それで,この ローマ字は ポルトガル式と よばれて います。ただし,この ローマ字は 日本人の あいだに ひろまりませんでした。キリスト教が 弾圧 される ように なったからです。

18世紀の 日本は オランダと つながりを もって いたので,今度は オランダ語風の ローマ字が つくられました。オランダ式ローマ字です。これも 一般の 日本人には ひろまらず,蘭学者 など 一部の 人たちの あいだだけで つかわれました。幕末の 薩摩藩主 島津斉彬(しまづ なりあきら)は,この ローマ字で 日記を かいて いました島津斉彬は「日の丸」を 日本の 船の 旗に しようと 提案 した ことでも しられて います。かれは 外国に 対抗 できる 軍事力の 必要性から,大砲を そなえた 大型の 船を つくろうと しました。しかし,そう すると,船の 形が 西洋の 船と おなじに なって,どこの 国の 船か わかりにくく なります。それで,目印の 旗を きめようと かんがえました。

島津斉彬の日記
島津斉彬の 日記

高の事,麻布新町の由,肥前伊達へ申し遣る,玄朴へも詳しく申し遣る。

ヘボン式
Hebonsiki


ヘボン

1867(慶応3)年,アメリカ人の 宣教師 ヘボンが「和英語林集成」と いう 辞典を つくりました。その みだし語は ローマ字・カタカナ・漢字で かかれ,ABC順に ならべられて いました。

このころ,ローマ字を ひろめる 運動を する「羅馬字会」と いう 団体が あり,「和英語林集成」が つかって いた ローマ字に すこし 手を くわえた ものを 会の 方式と して 採用 しました会の 方式は 6人の 委員で 検討 され,ふたつの 方式が 提案 されました。ひとつは「和英語林集成」の ローマ字を すこし 手なおし した 方式,もう ひとつは 天文学者 寺尾寿(てらお ひさし)の アイデアで,のちの 日本式です。前者を おした 委員が 3人,後者を おした 委員が 3人と,意見は ふたつに われましたが,寺尾寿は 議長で 多数決に くわわらなかったので,3対2で 前者に きまりました。

ヘボンは「羅馬字会」の 顧問に なって いたので,「和英語林集成」の ローマ字を 第3版から この 修正バージョンに あわせました。この ローマ字は 日本人の あいだに ひろまって いき,ヘボン式と よばれる ように なりました。これが 現在 つかわれて いる ヘボン式の もともとの 形です。

和英語林集成
「和英語林集成」

日本人の ローマ字
Nihonzin no Rômazi

ローマ字の 便利さに 気づいた 日本の 知識人は これを 日本に とりいれようと しました。しかし,じっさいに やって みると それは 日本語を かくのに 適して いない ことが わかったので,日本語を かくのに 適した つづりかたに あらためました。外国の すぐれた ものを 日本に とりいれる とき,日本人が 昔から やって きた ことを このときも やった わけです。

日本式
Nipponsiki


田中館愛橘

1885(明治18)年,物理学者 田中館愛橘(たなかだて あいきつ)が「理学協会雑誌」に「本会雑誌ヲ羅馬字ニテ発兌(はつだ:世に出す,発行)スルノ発議及ヒ羅馬字用法意見」を 発表 して,ヘボン式に かわる あたらしい ローマ字を 提案 しました。この ローマ字は 天文学者 寺尾寿(てらお ひさし)の かんがえでしたが,田中館は それを 学術雑誌で つかおうと いった わけです。のちに この ローマ字は「日本式」と よばれる ように なりましたこの 提案の すこし 前から 日本式と おなじ ような ローマ字が つかわれて いました。それを 体系的に まとめて 理論づけたのが 寺尾寿や 田中館愛橘らの グループです。

それまでの ローマ字は 外国人が 日本語を よむ ための ふりがな みたいな ものでしたから,その つづりかたは 外国語風でした。それに たいして,この あたらしい ローマ字は つづりかたが 日本語風です。日本人が 日本語の 文章を かく ために つくった ローマ字だからです。つまり,この ローマ字は 日本語の 表記法です。

しかし,すでに 定着 しつつ あった ヘボン式を 変更 する ことに 抵抗を かんじる 人も おおかった ようです。1886(明治19)年,田中館の 提案は「羅馬字会」の 総会で 否決 されて しまいます。ここから ヘボン式日本式の 対立が はじまります。

ヘボン式の 支持者と 日本式の 支持者は はげしい 議論を たたかわせ,それぞれの 方式を 熱心に 宣伝 しはじめました。その 結果,1913(大正2)年に 中央気象台が 日本式を 採用 し,1917(大正6)年に 陸軍陸地測量部の 地図が 日本式に なり,1922(大正11)年に 海軍水路部の 海図が 日本式に なり,1927(昭和2)年に 鉄道省の 駅名表記が ヘボン式に なりました。1928(昭和3)年には 陸軍省が,1929(昭和4)年には 海軍省が,それぞれ 正式に 日本式の 採用を きめて いますおおづかみには,ふかい かんがえの ない 一般人,アメリカかぶれの 人,世の中の ながれに あわせようと する タイプの 人が ヘボン式の 支持者で,理論的な かんがえかたを このむ 理系の 人,本当に 日本や 日本語の ためを かんがえて ローマ字を ひろめようと して いた 人が 日本式の 支持者と いう 図式に なるかも しれません。昔は いわゆる 理系の 学者に ローマ字論者が おおく,とくに 日本式の 支持者が おおかった ようです。ローマ字論者が おおかった 理由は,つねに 外国と 情報交換を して いる 理系の 学者は 日本語の 閉鎖性を 意識 する ことが おおかったからです。日本式の 支持者が おおかった 理由は,自然科学の 分野で ドイツ語 などが 影響力を もって いた 時代なので,理系の 学者が 英語を 相対化 する 視点を もって いたからです。たとえば,ドイツ語の 論文を よく よむ 人なら,【チ】chi と かいたり ja【ジャ】と よんだり するのは おかしいと 気づく はずです。


中央気象台の 地名表記

Gihu, Kôhu, Matumoto, Maebasi などが 日本式で かかれて います。

訓令式
Kunreisiki

ローマ字の 方式が 統一 されない ことは 日本だけの 問題で なく,外国も 日本の 地名表記が さだまらないので こまって いました。そして,1928(昭和3)年に ロンドンで ひらかれた 万国地理学会議が 日本の 地名表記を 問題に して,日本政府に 表記を 統一 して ほしいと いって きました。

そこで,文部省は 1930(昭和5)年に「臨時ローマ字調査会」を たちあげ,専門家が 議論を かさねた 結果,1937(昭和12)年9月21日に 内閣訓令第3号「国語ノローマ字綴方統一ノ件」が だされました。訓令は 行政機関への 命令ですから,このとき はじめて 公式の ローマ字が できたと いえます。この あたらしい 方式には 名前が ついて いなかったのですが,訓令で さだめられた ことから 自然に「訓令式」と よばれる ように なりました文部省は 教材用の「ローマ字掛図」を つくったり「羅馬字書方調査報告」を まとめたり した ことは ありましたが,公式の ローマ字を つくる ことは して いませんでした。(本当は「羅馬字書方調査報告」で まとめた ローマ字を 公式の ルールに したかったのですが,批判が おおくて,あきらめた ようです。)なお,訓令は 行政機関への 命令で,公の 分野で つかう ローマ字を きめて いるだけです。民間の 会社や 一般人に たいする 強制力は ありません。しかし,会社や 一般人が 訓令式と ちがう 方式を つかわなければ ならない 特別な 事情 なんて,ふつうは ないでしょう。

訓令式日本式の かんがえかたを うけついで います。「ローマ字表」を くらべて みると あきらかですが,訓令式日本式は ほとんど おなじです。かんたんに いえば,日本式を あたらしく したのが 訓令式です。言語学の 理論から みちびきだされた 訓令式が 基本的に 日本式を 採用 した 事実は ヘボン式が 学術的に 否定 された ことを 意味 して います。ヘボン式は 言語学の 専門知識を もたない 宣教師が つくった ものですから,これは 当然の 結果で あったと いえます訓令式の ルールには ヘボン式の かんがえかたを とりいれた 部分も すこし あります。「じ/ぢ」「ず/づ」の かきわけを やめた ところです。これは 日本式の 支持者が ヘボン式の 支持者に 譲歩 した 部分です。そして,まさに そこが 訓令式の 弱点に なって います。日本式を 支持 する 人から みれば 訓令式には 劣化 して いる ところが あります。そんな わけで,日本式を 支持 する 専門家の 中には 訓令式を そのまま 日本式と よびつづけ,日本式を「純日本式」と よぶ 人も います。

訓令式が できた ことで,公の 分野で つかわれる ローマ字は すこしずつ 統一に むかって いきました。1938(昭和13)年には 鉄道の 駅名が 訓令式に かわりました。1942(昭和17)年には「英語」の 教科書で つかわれる ローマ字も 訓令式に なりました。


MT. HUZI」 (昔の 教科書)

これは「英語」の 教科書ですが,「富士山」を Mt. Huzi と かいて います。


ただし,民間の 会社や 英語教育に かかわる 団体 などは そのまま ヘボン式を つかいつづける ことも ありました。パスポートの ローマ字も 原則と して 訓令式に する よう 通達が だされましたが,じっさいには かわって いません。

戦争の 前と あと
Sensô no mae to ato

戦争の 前と あとでは さまざまな 価値観が さかさまですが,それは ローマ字も おなじです。日本が 戦争に つきすすんで いった 時代,ローマ字は 危険思想と みなされて 弾圧 されました。戦後は 民主的な かんがえが ひろまって,全国の 学校で ローマ字教育が はじまりました。

ローマ字の 弾圧
Rômazi no dan'atu

昭和の はじめごろは 国粋主義の 時代でした。一般人の あいだに 外国の ものを しりぞける かんがえが わきおこって ひろまって いき,看板に かかれた 外国語 などが やり玉に あげられました。アメリカとの 戦争が はじまると,英語を「敵性語」だと いって 攻撃 する ように なりました。まったく 無関係な 外国語や ローマ字で かいた 日本語まで いいがかりを つけられました。

このころは 全体主義の 時代でも あり,政府は 民主的な かんがえを おさえつけて いました。くわしくは「ローマ字の 目的」で 説明 して いますが,ローマ字は 民主主義と かかわって います。ローマ字を ひろめる 運動を して いた 人たちの 中には 政府と 対立 する かんがえの 人も いて,政府は ローマ字を 一種の 危険思想と みなして いました。戦後の 民主化を こころよく おもって いない 人が ローマ字の 悪口を かきたてる ことは いまでも よく あります保守系の メディアや SNSの インフルエンサーが 日本・中国・韓国の 言語政策に かんする あやまった 歴史を ばらまいて 世の中に かんちがいを ひろめて いる ことも あります。

1939(昭和14)年には 大勢の ローマ字運動家が 検挙 された「左翼ローマ字運動事件」が おこって います。このときの 逮捕者の 中には 当時 非合法と されて いた 活動に かかわった 人も いましたが,おおくは 特高警察に よる でっちあげの 事件でした。ローマ字を ひろめる 運動と 平和を もとめる 思想には かさなりあう ところが あるので,ローマ字運動家は 目を つけられたのでしょう。[よみもの]の「斎藤秀一」も およみ ください。


「看板から米英色を抹殺しよう」(写真週報)

「敵性語」の 排斥運動は 町内会や 国粋主義的な 団体 などから 自然に わきおこった もので,新聞や 雑誌に あおられて ひろまって いきました。理屈に もとづいて いないので,やる ことが めちゃくちゃでした。

GHQの 命令
GHQ no meirei

1945(昭和20)年,戦争が おわって 占領の 時代が はじまりました。GHQは さっそく 道路や 駅に その 名前を 英語で 掲示 する ことを 命令 したのですが,そのとき ヘボン式を つかう よう 指定 しました。そのため,日本の ルールで 訓令式を もちいる きまりに なって いるのに,いたるところが ヘボン式だらけに なって しまいました。

日本国政府ハ一切ノ都会自治町村及市ノ名称ガ此等ヲ連結スル公路ノ各入口ノ両側及停車場歩廊ニ少クトモ六「インチ」以上ノ文字ヲ使用シ英語ヲ以テ掲ゲラルルコトヲ確保スルモノトス名称ノ英語ヘノ転記ハ修正「ヘボン」式(「ローマ」字)ニ依ルベシ

SCAPIN-2 Part II, 17[原文


ローマ字の 道路標識

このころは,訓令式を 支持 する かんがえの 中に 国粋主義・軍国主義が あるのでは ないかと うたがわれて いました。なにしろ 訓令式は 国定の 方式で,陸軍も 海軍も それを 採用 して いました。GHQの 中には 日本を 民主化 する ために 訓令式を おさえつける べきだと かんがえる 人も いた はずです陸軍・海軍が 訓令式を 採用 して いた ことも あり,訓令式の 支持者には 軍人との かかわりや いさましい 発言の おおい 人が いたとも かんがえられます。訓令式が できてから くすぶりつづけて いた ヘボン式の 支持者が 訓令式の 支持者の 悪口を GHQに ふきこんだり したかも しれません。とにかく,訓令式の 支持者だと いうので,あらぬ うたがいを かけられて,ひどい 目に あった 人も いた そうです。

しかし,GHQが ヘボン式を 強制 したのは そういう 意味からでは なくて,占領軍に 便利だったからです。GHQは 占領軍が 関係 する ところには ヘボン式,日本国民が 関係 する ところには 訓令式と かんがえて いました。学校で おしえる ローマ字の 方式にも 口だしを しなかったので,どの 方式を おしえても いい ことに なって いました。

戦後は 道路や 駅の 表示に かぎらず あらゆる 分野で ヘボン式が ふえて いくのですが,これは アメリカが 日本に ヘボン式を おしつけたからでは なく,日本政府が すすんで そう して いるからです。

敗戦後ヘボン式が街にあふれて居る。その理由は進駐軍がヘボン式を使ふからといふのである。然し、教育使節団の報告にもある通り、日本語のローマ字綴方は日本人が決定すべきものであり、同時に進駐軍がヘボン式を使つて居る理由もアメリカ兵に読みやすいからといふ点にあり、日本のローマ字綴方に干渉するものではないから、この点は誤解のないやうにしたい。

鬼頭礼蔵「国字改革の方向」(1946)

日本語表記の ローマ字化?
Nihongo hyôki no Rômazi-ka?

GHQは 日本の 教育に 問題が あると かんがえて いたので,日本の 教育制度は おおきく あらためられる ことに なりました。6-3-3制・男女共学・教育委員会・PTA・社会科 などは すべて 戦後の 教育改革で できた 制度です。


1946(昭和21)年,アメリカ教育使節団が 日本の 教育制度を あらためる 提案を まとめました。マッカーサーに 提出 された 報告書の 中に つぎの 部分が あります。すこし わかりにくいですが,日本語の 文章を ローマ字で かく よう すすめて います日本語表記を ローマ字化 する 目的は,日本の 民主化(学習の 容易化),近代化(機械化と 利便性・経済性の 向上),そして 国際化でした。また,当時は 漢字と 軍国主義・国粋主義との むすびつきも うたがわれて いました。「八紘一宇」「七生報国」「忠君愛国」「滅私奉公」などの ことばで 軍国主義・国粋主義の 教育が おこなわれて いた 事実が あるからです。ローマ字なら 検閲に 便利だからと いう 理由も ありました。

国字の問題は教育実施上のあらゆる変革にとって基本的なものである。国語の形式のいかなる変更も、国民の中から湧き出てこなければならないものであるが、かような変更に対する刺戟の方は、いかなる方面から与えられても差しつかえない。単に教育計画のためのみならず、将来の日本の青年子弟の発展のためにも、国語改革の重大なる価値を認める人々に対して、激励を与えて差しつかえないのである。何かある形式のローマ字が一般に使用されるよう勧告される次第である。[…]文字による簡潔にして能率的な伝達方法の必要は十分認められているところで、この重大なる処置を講ずる機会は現在が最適で将来かかる機会はなかなかめぐってこないであろう。言語は交通路であって、障壁であってはならない。この交通路は国際間の相互の理解を増進するため、また知識および思想を伝達するためにその国境を越えた海外にも開かれなくてはならない。

この 報告書は 教育の 改革に かんする さまざまな 提案を して いて,その ほとんどが 実行 されましたが,たった ひとつだけ 採用 されなかった 提案が あります。それが 日本語表記の ローマ字化です。マッカーサー 自身も ローマ字化の 提案には 否定的な 所感を のべて います。

GHQが かんがえて いたのは 日本語表記の 簡易化で あって ローマ字化では ありませんでした。日本語表記の ローマ字化は GHQの 一部に あった かんがえで,中には たいへん 熱心な 人が いた ことも 事実ですが,占領期の はやい 段階で 否定 されて いた ことが わかって います。


インターネットには この 件を あつかった 記事が たくさん あります。しかし,それらの ほとんどは GHQが 日本語表記の ローマ字化を たくらんで いたと いう つくりばなしです。一部の 保守派が 意図的に かきこんで いるか,それに だまされた 人が ひろめて いるか,どちらかだと おもわれます。雑学を あつかう テレビ番組 などが いいかげんな 情報を たれながして いる ことも よく あります。

日本語を ローマ字で かく かんがえは 明治時代から ありました。戦後に 外国人が おもいついて どさくさまぎれに おしつけようと した ものでは ありません。日本語表記の ローマ字化に ついては「ローマ字運動」を およみ ください。

ローマ字教育
Rômazi kyôiku


「ローマ字」の 教科書

これは 昭和20年代に つかわれて いた 小学4年生の 教科書です。ローマ字は まだ 必修では なかったので,「国語」の 教科書とは 別に「ローマ字」の 教科書が つくられました。

外国人に 指摘 されなくても,日本語の 表記システムに 欠陥が ある ことは あきらかでした。日本政府も 明治時代には 漢字を やめる 方針を きめて いて,将来的には 日本語を かな文字 または ラテン文字(ABC)で かく ように かえて いく つもりでした。くわしくは「国語調査委員会」を およみ ください。この 時代に なると 政府の かんがえは かわって いましたが,戦後 しばらくの あいだは,日本語表記の 改革に 反対 する 保守派が 発言力を よわめて いた 時期で,改革派の いきおいが まして いました国語調査委員会」の 方針は のちの「臨時国語調査会」(1921年~),「国語審議会」(1934年~)にも うけつがれ,戦後の 1960年代の はじめまで いきのこって いました。

そして,1947(昭和22)年,戦前から 一部の 学校で おこなわれて いた ローマ字教育が 必修では ない ものの 全国の 小学校と 中学校で はじまりました。「ローマ字ヲ日本に於ケル一般小学校生徒ニ課スル」建議が 衆議院で 可決 された 1907(明治40)年から ちょうど 40年後の ことでした。小学校は 4年生から 6年生までが 対象で,授業時間は 1年あたり 40時間 以上と されました。文部省が「ローマ字教育の指針」「ローマ字文の書き方」を さだめ,りっぱな「ローマ字」の 教科書も つくりました。

1950(昭和25)年に 第2次アメリカ教育使節団が やって きて,改革の すすみぐあい などを しらべました。そして,ローマ字教育の 必修化を 勧告 しました。(この年の 調査に よると,小学校の 84.3%,中学校の 48.1% で ローマ字教育が おこなわれて いました。

よみかき能力テスト
Yomikaki nôryoku tesuto

日本人の よみかき能力は 世界的に みても たかいと いわれて いましたが,その 一方で,正常な 社会生活を いとなむには じゅうぶんで ないと いう 主張も ありました。1948(昭和23)年,改革派からの つよい すすめも あって,文部省が よみかき能力を しらべる 大規模な テストを おこないました。もし 結果が 極端に わるかったら,日本語の 表記システムを 抜本的に あらためないと いけません。それを たしかめる ための テストでした。

90問の テストに 約17000人が 参加 した 結果,平均点は 100点満点に 換算 して 78.3点でした。0点だった「非識字者」の 割合は 1.7%でした。これは おおむね 予想 されて いた とおりの 結果で,抜本的な 改革は 不要と 判断 されました。

しかし,改革派は「満足な よみかき能力を もって いる 者は 6.2%」と 結論づけ,改革の 必要性を あらためて 確信 しました。改革派に して みれば,日本人の 日本語を あやつる 能力が おとって いる ことは テストを する 前から わかりきって います。だから 日本語の 表記システムを もっと やさしく しようと うったえて いた わけです。テストの 問題は 社会生活で 必要に なる 最低水準で つくって ありましたから,本当なら みんな 満点が とれて あたりまえです。きびしい いいかたを すれば,満点の 人だけが 識字者です。ところが,満点の 人は 4.4%しか いませんでした。満点に 相当 すると みられる 人まで ふくめても 6.2%にしか なりませんでした文部省は 平均点を 重視 して「日本人の読み書き能力の高さを実証することになった。」と 評価 しました。一方,改革派は 満点を とったら よみかき能力が あると 解釈 して「日本人は不十分なというより、みじめな言語生活、ことばや文字の読み書きをしている。」「文字言語を改革する必要のあることも実証された。」と 評価 しました。テストの 問題は つぎの ような ものでした。試験官が いった ことばを ひらがな・カタカナで かく:「春に咲くさくら「食べるウドン;数字を かく:「明治28年9月16日」「五丁目番地」;試験官が いった ことばを えらぶ:「こんにあく、こんなゃく、こんにゃく、こんにく、こんにょく」ミシン、ミシシ、ミシい、ミシレ、ミシツ」「日木、日米、目本、日本、二本」;漢字の かきとり:を見る。」先生お体を大切に。」「みなさん元気ですか。」「私にはがあります。」;意味が つうじる 語を えらぶ:「朝、太陽は(冬、、雨、上)から出る。」;ことばの 意味を えらぶ:「禁煙(スリに御用心、ぼうしをとれ、静かにせよ、ここからはいるな、タバコを吸うな)」;運動会の 告知や 求人広告 などを よんで,その 内容に ついての 質問に こたえる 文章問題。全体的に やさしい 問題 ばかりです。漢字の かきとりには すこし 手ごわい 問題も ありますが,それでも「保証人」「履歴書」の レベルです。


どちらの みかたが ただしいのかと いえば,それは どちらでも ありません。まず,「非識字者は 1.7%」と いう 解釈は 完全な あやまりです。この テストは 90問中 65問が 選択式(4択 または 5択)で,でたらめに こたえても 0点に なりにくい ものでした。選択式なら ふつうは どれかの 選択肢を えらびますから,よみかき能力に 問題が ある 人は 0点で ない 可能性が たかいでしょう。そして,この テストでは 解答用紙に 何も かかなかった「無反応者」が 1.6% いました。非識字者と みなされた 人の 大部分は 無反応者です。これは 問題の 意味や 解答の 方法を 理解 できなかった 人や,この テストに 非協力的で わざと 白紙を 提出 した 人だと かんがえられます。したがって,この 1.7%は 非識字者の 割合を あらわして いると いえません。この 数値を 根拠に したと おもわれる「日本人の 識字率は 98%」と いう 言説も 事実と いえません。一方,「識字者は 6.2%」と いうのも あきらかに いいすぎです。手がきで かけない 漢字が すこし くらい あっても 社会生活で こまる ことは ないからですこの テストは 日本で はじめて 統計的手法に もとづいて おこなわれた 調査で,母集団に かたよりが でない ように する など,念いりに 準備 して おこなわれました。しかし,のちの 研究は この テストに おおくの 不備が あった ことを 指摘 して います。たとえば,テストを うける ことに なった 人には テストの 会場や 時間を 説明 した 案内状が おくられたのですが,それは むつかしい 漢字だらけの 文章で かかれて いました。もしかしたら,案内状が よめなかったり しりごみ したり して,テストを 欠席 した 人が いたかも しれません。さまざまな 障害を もつ 人たちの ことも かんがえに はいって いなかった ようです。よみかき能力は あるか ないかで 白黒が つけられる ものでは なく,みんなが 灰色で グラデーションが ある ものです。この テストは それを よく かんがえずに おこなわれて しまったと いえますが,結果と しては 機能的識字の 能力を ある 程度は 測定 できたと 評価 されて います。

念の ために つけくわえて おくと,よみかき能力(リテラシー)は 正常な 社会生活を いとなむのに これだけは どうしても よみかき できなければ ならないと いう 能力ですが,社会生活は 職業 などに よって ちがいますから,一律の テストでは はかれません。また,国際的な 比較も,テストの 難易度が ちがうので,あまり 意味が ありません。


よく,この テストの 目的は 日本語表記の ローマ字化だったと いわれます。また,それに 都合が いい よう 報告書に 手心を くわえて ほしいと GHQの 担当者から たのまれた 日本の 学者が それを つっぱねたと いう はなしも あります。しかし,そんな 事実は ありません。GHQが 日本に ローマ字を おしつけようと した ことは 一度も ありません。

戦後の 国語改革は マスメディアが 近現代史の 一部と して とりあげる ことの おおい 話題です。ところが ふしぎな ことに,それらは しばしば 事実で ない 部分を ふくんで おり,世の中に うその 歴史を ひろめて います。有名な 言語学者が おそらく 記憶ちがいで かいて しまった 記述が まちがった 歴史に お墨つきを あたえて いたりも します。

こういう わけですから,この テストは ローマ字の 歴史と あまり 関係ないのですが,かんちがいが ひろまって いる 現状を おもく みて,ここで 説明 しました。

ローマ字に よる 教育実験
Rômazi ni yoru kyôiku zikken

1948(昭和23)年から 小学校の「国語」以外の 授業を ローマ字だけで おこなう 実験が はじまりました。黒板も ノートも ローマ字でと いう 大胆な 実験です。そうして ふつうの クラスと 授業の 理解度に ちがいが でるか しらべる 計画でした。

残念ながら,この 実験は じゅうぶんな 予算や 日程が わりあてられず,いいかげんに 実施 されました。担当者にも 不誠実な 態度だった 人が おおく,はじめから この 実験を つぶしに かかって いた 節さえ ありますこの プロジェクトは 教育使節団の 勧告を うけて,民間情報教育局が 命令 して おこなわれたのですが,実験の 意義が よく 理解 されて いなかった ようです。また,別の 理由と して,日本の ローマ字運動家に たいする 偏見も ありました。熱心な ローマ字運動家は 共産主義者だと おもわれたり,日本式訓令式の 支持者は 国粋主義者では ないかと うたがわれたり して いました。

この 実験では ローマ字で 授業を おこなった 児童の ほうが よい 成績を しめしました。実験の 条件が ととのって いれば,もう すこし はっきり した 結果が でたと かんがえられて います。実験に くわわった 教師も 児童も 保護者も ローマ字で おこなう 学習に たいへん 満足 して いた ことが わかって いますただし,これは たんに ローマ字で 学習 した クラスの ほうが 成績が よかったからとも かんがえられます。教師と 保護者は 結果が よければ 手段は なんでも いい わけで,児童も 親が よろこべば うれしいでしょう。

しかし,この 実験は 3年で うちきられ,それから のち,かえりみられる ことも ありませんでした。このころから ローマ字の もりあがりに かげりが みえはじめます。

ローマ字の おとろえ
Rômazi no otoroe

占領の 時代が おわって 日本が 主権を とりもどすと,ローマ字は 政治的な 力で おさえつけられ,おとろえて いきました。ローマ字は きびしい 冬の 時代に はいり,それが いまも つづいて います。

「ローマ字のつづり方」
"Rômazi no tuzurikata"

すでに のべた ように,訓令式が できた あとも ヘボン式は つかわれて いました。GHQの 命令で 道路や 駅の 表示に ヘボン式が つかわれて いただけで なく,外務省も パスポートの 名前を 訓令式に するのを こばんで いました。そんな ことも あって,一般人には 正式の ローマ字が どの 方式なのか わかりにくく なって いました。

そこで,1948(昭和23)年,ふたたび ローマ字の かきかたに ついて はなしあう ことに なり,1953(昭和28)年に 国語審議会が あたらしい ルールの 原案(建議)を まとめました。そして,1954(昭和29)年に「ローマ字のつづり方」が 告示 され,1937(昭和12)年の 訓令は 改定 されました。

あたらしい ルールは 訓令式を 本則と さだめて いましたが,特別な 事情が あれば ヘボン式も つかって いい ことに して いました。ヘボン式日本式の 混在が 国際的にも 問題に なり,ローマ字を 統一 する 目的で 訓令式を つくったのに,廃止 された ヘボン式が いきかえった わけです。これでは 昔に 逆もどりです。

じつは,あたらしい ルールの 原案(建議)を つくった 国語審議会は「国語教育」「公文書」「地名」は 訓令式に する ことを もとめて いて,「私文書」「人名」などに かぎって 例外を みとめる かんがえでした。ところが,「ローマ字のつづり方」が できあがって みると,その 部分が きえて いました。つまり,どんな 分野でも ヘボン式が つかえる ように なりました。この 事実から,官僚は 訓令式を 徹底 する ために 訓令を 改定 したのでは なく,その 反対で あった ことが わかります。

一部の 分野で ヘボン式を おしつけて いた GHQの 命令が 無効に なったら,ローマ字は すべて 訓令式に しなければ なりません。それを きらった 政府が あわてて ヘボン式を 合法化 したのでは ないか,そんな ふうに うたがわれて います。くわしくは「ローマ字のつづり方」を およみ ください。

訓令式の おとろえ
Kunreisiki no otoroe

「ローマ字のつづり方」が できた あと,公の 分野で つかう ローマ字は ほぼ すべて ヘボン式に なりました。パスポートの ローマ字道路標識の ローマ字駅名標の ローマ字,学校の「英語」で おしえる ローマ字 などです。訓令の 強制力が およばない ビジネスの 分野では ずっと ヘボン式が 主流でしたから,訓令式は 学校の「国語」で おしえる ローマ字と 地図の ローマ字 くらいに なりました。

公の 分野で ヘボン式が つかわれるのは 政治的な 判断です。役人は「ローマ字のつづり方」が さだめて いる 本則が 訓令式で ある ことを しって いながら ヘボン式を つかって います。英語が つよい 影響力を もっている ビジネスの 分野でも 昔から ヘボン式が つかわれて きました。おおくの 一般人が ヘボン式を このんで つかうのは,ヘボン式が 正式の ローマ字だとか,ヘボン式訓令式より すぐれた 方式だとか,そんな かんちがいを して いる せいですが,それは 日本の 政府や 経済界が 一般人を そう しむけて いるからです。

ただし,アメリカが 日本に たいして ローマ字の 方式を ヘボン式に かえる よう 命令 した した ことは 一度も ありません。GHQは 日本に 道路標識 など 一部の 分野で ヘボン式を つかわせましたが,占領軍が つかう ところには ヘボン式,日本人が つかう ところには 訓令式と いう 方針で,日本国内の ルールには 介入 しませんでした。アメリカ教育使節団が 日本語表記の ローマ字化を すすめた ときも,ローマ字の 方式は 日本人の 専門家集団が きめる よう もとめて いました。日本の 政府が ヘボン式を ごりおし して いる 理由は,政府の アメリカに たいする おもねりと 保守派の 訓令式に たいする 攻撃だと おもわれます保守派には 訓令式の ひろまりを ふせぎたい 動機が あります。明治時代の 知識人が ローマ字を 日本に とりいれようと した とき,はじめに つかったのは ヘボン式でした。しかし じっさいに やって みると,それは 日本語の 文章を かくのに 適して いない ことが わかったので,日本語の 文章を 自然に かける 日本式が つくられました。この 日本式を あたらしく したのが 訓令式です。訓令式は 日本語の 表記法を 国際化・能率化・民主化 して 日本と 日本語を 発展 させると いう「ローマ字の 目的」に かなった 方式です。ヘボン式の 支持者には ローマ字を ただの 発音記号 みたいな ものと かんがえる 人も おおく,ローマ字と 国語教育を むすびつける ことに 反対 する 学者も いました。(じっさい,ヘボン式は 国語教育の 役に たちません。)標準式の「ローマ字表」が しばしば 五十音図の 形に かかれず,たんに 子音と 母音の マトリックスに なって いるのも そういう 理由です。保守派は 日本の 民主化や 日本語表記の ローマ字化に 反対 して いるので,単語(おもに 固有名詞)を ABC表記に 変換 するだけの ヘボン式は ゆるせても,日本語の 表記法を 改革 する もくろみを ふくんで いる 訓令式は ゆるせません。一部の 保守派が 訓令式ローマ字運動の 残滓だと いいふらして いる ことが ある 理由も ここから かんがえると よく わかるでしょう。


このような わけで,いまでは ほとんどの ローマ字が ヘボン式に なって いますが,これには さまざまな 問題が あります。ヘボン式は よみかきが むつかしく,実用性に かけます。ヘボン式から 派生 した「英語式」は 日本人が みても まともに よめない ことが あり,世の中が 不便に なって います。学術的に 否定 された 方式を 英語教育や 日本語教育で つかうのは 理屈に あって いませんし,学校の「英語」で 中途半端に 英語風の ローマ字を おしえる ことから 英語教育が 保護者の 信用を うしなって います。日本が 公の 分野で 英語風の ローマ字を つかって いる 現状は 国際化の 理念に さからって います。自分の 言語を 外国語風に ねじまげて かいて いる ようでは 一人前の 国と みなされません。じじつ,先進国と よばれる 国で こんな ことを して いるのは 日本だけです。おおくの 外国人も これを ふしぎに おもって います日本語は 英語と まったく つながりの ない 言語で,日本が 植民地に されて いた 歴史も ないのに,日本の ローマ字は 英語に にて います。しかも,日本人が かく ローマ字は 人に よって つづりが ちがう ことも しばしばで,まちがって かいて いる 人が おおいのは 外国人の 目にも あきらかです。日本語と 英語の つづりかたが にて いて,日本人が 日本語を ただしく かけないのですから,外国人が 首を かしげるのも 当然でしょう。

ローマ字教育の おとろえ
Rômazi kyôiku no otoroe

1958(昭和33)年に 告示 された 学習指導要領で,ローマ字教育は 必修に なりました。しかし,授業時間が へりました。小学校では もともと 4年生から 6年生までで 1年あたり 40時間 以上と されて いた ものが,4年生で 20時間 程度,5年生で 10時間 程度,6年生で 10時間 程度に なりました。3分の 1に なった わけです。中学校では 学年ごとの 授業内容の 説明が なく なり,授業時間の 指定も なく なりました。また,ローマ字教育が 必修に なって「国語」の 授業に くみこまれたので,「ローマ字」の 教科書が 廃止 されました。

1968(昭和43)年に 告示 された 学習指導要領で,小学校の 授業内容が 4年生の「日常ふれる程度の簡単な単語の読み書き」だけに なり,授業時間の 指定が なく なりました。中学校では ローマ字教育 そのものが なく なりましたこの 状況は それからも かわらず,いまの こどもは ローマ字を 小学校の 3年生で 4時間 ほどしか 勉強 して いません。文字の ABCを おぼえる ところから はじめて 4時間ですから,ローマ字 そのものの 勉強は ごく わずかです。しかも,ローマ字は「国語」の 中で あつかいが かるい 単元 らしく,学校の 行事の 都合 などで 授業時間が けずられる ことも ある そうです。

文章の よみかきが なく なって 単語だけに なった ことには たんに 内容が へったと いう 以上の おもい 意味が あります。政府が 国民に ローマ字表記の 文章を よみかき する 能力を もとめなく なった ことを しめして いるからです。その 理由は つぎの 節を よめば わかるでしょう。

国語改革の おとろえ
Kokugo kaikaku no otoroe

このころ,国語審議会の 内部では 国語改革に 賛成 する 表音派と それに 反対 する 表意派の 対立が はげしく なって いました。1961(昭和36)年,とうとう 表意派の 委員が 集団で 脱退 する 抗議行動を おこし,それが 国会で とりあげられる 事件に なりました。問題を 政治の 場に もちこむ 作戦だったのかは わかりませんが,結果と して これが まがりかどに なりました。このころ 政治の 世界では 保守派が いきおいを とりもどして いたからです。

この 騒動が きっかけで 国語審議会は おおきく あらためられる ことに なりました。1962(昭和37)年,学識者に よる 建議機関と して 独立性を もって いた 国語審議会は 文部大臣の 諮問機関に なりました。ローマ字運動家が 弾圧 された 戦争中でさえ 政治権力に 介入 されなかった 国語施策は ここから 政治の 力で ゆがめられて いく ように なります。

たとえば,1966(昭和41)年の 国語審議会総会で ある 政党の「要望」が 説明 され,日本語の 表記法を かな文字表記 または ローマ字表記に かえて いくと して いた 国語調査委員会の 決議を 完全に 否定 しました。(そのため,いまの 日本では ローマ字が 日本語の 文章を かく ものでは ない ことに なって います。ローマ字が 日本語の 文章を かく ために ある 事実を 日本人だけが しらないのは こういう わけです。)

また あるときは,公安委員で 首相の 側近でも あった ある 人物が うそで 首相を そそのかして 激怒 させ,国語改革に かかわった 文部省国語課の 課長が 更迭 されたりも して います。

1980年代に はいると,国語審議会は 人気の 歌人 などを つかって 世論誘導を する ように なり,戦後に おこなわれた 国語改革を つぎつぎと 骨ぬきに して いきました1981(昭和56)年に「当用漢字」が 廃止 されて「常用漢字」に なり,1986(昭和61)年に「現代かなづかい」が 廃止 されて「現代仮名遣い」に なりました。これらの 改定で ルールの 位置づけが かわり,強制力を もたない ただの「目安」に なりました。2001年の 省庁再編で,国語審議会の しごとは 文化審議会国語分科会に うつされましたが,その 文化観は うしろむきです。おまけに,日本語の 表記を どう するかと いう 技術論から はなれて,文化を 意識 した 精神論に かたむいて きました。だんだん 説教くさく なって きたとも いえます。2007年に「敬語」の 分類を みなおしたのは 象徴的です。近年は「国語で郷土愛を育くむ」と いう わけの わからない 世界に まよいこんで おり,もはや 倫理・道徳を とく タイプの 宗教団体と みわけが つかない ありさまです。心の 中の きまりと 世の中の きまりを わけて かんがえない 国は 文明国と いえません。「常用漢字」は 2010年にも あらためられ,漢字の 数が ふえました。「人名用漢字」も はじめは 92字だった ものが いまでは 863字に ふえて おり,漢字制限と いう たがが はずれた 状態に なって います。

地図も ヘボン式に
Tizu mo Hebonsiki ni

大正時代から 陸軍省・海軍省が 日本式を 採用 して いたので,地図(陸図・海図)の ローマ字は 訓令式でした。ところが,1999年に 海図が,2005年に 陸図が あいついで ヘボン式に かえられました。変更の 理由は 国際化の 理念や 言語学の 理論を ないがしろに した ひどい もので,訓令式よりも ヘボン式の ほうが よく つかわれて いる 実状に あわせただけでした。

ヘボン式が よく つかわれて いるのは 政府が ヘボン式を ごりおしで つかって きたからなのに,はずかしげも なく それを 理由に したのでしたみんな やってるから おれも やると いうのでは,まるで 万引きの いいわけでは ありませんか。これを 官僚が すすんで やって いるのか,いやいや やらされて いるのか,よく わからないのですが,いずれに しても こんな ありさまでは 日本を 民主主義の 国と いえません。

あたらしい ローマ字
Atarasii Rômazi

ワープロの 開発が 日本語の かきことばに あたえた 影響は はかりしれません。ローマ字も おおきな 影響を うけました。

ISO 3602
ISO 3602

1989年,国際標準化機構(ISO)は 訓令式を ローマ字の 国際標準と して 採用 しました。それが ISO 3602 です。訓令式は 日本だけで なく 世界の 標準と して みとめられた わけです。この 規格に 強制力は ありませんが,外国が 日本語を ABC表記に する とき ISO 3602を もちいる ことが 期待 されて います。

しかし,日本政府は ISO 3602を 無視 して います。国内の いろいろな 分野が 勝手に つくって いる 独自方式を これに あわせて 統一 する うごきも ありませんISOの 規格は 定期的に みなおされる ことに なって います。現在 その 作業が すすんで いて,おおきな 変更が あるかも しれません。ヘボン式に かわるとか 廃止 されるとかの 可能性も あります。


中国・韓国にも ローマ字が あり,「北京」は Beijing,「釜山」は Busan です。これらは 中国語や 韓国語の 性質に あわせて 設計 されて いますから,外国人に とって よみやすい つづりでは ありません。それでも 中国や 韓国が これらの ローマ字を つかうのは,それが 国際化の 理念に かなって いるからです。そして,プライドを もった 国なら それが あたりまえだからです。こまった ことに,いまの 日本は それが できて いません。

「ワープロ式」
"Wâpurosiki"

日本語入力システムの ローマ字入力は もともと ワープロ専用機の 機能でしたが,すぐに パソコンの 機能に とりこまれました。1990年代に はいると しごと場や 家庭に パソコンが ゆきわたり,この ローマ字入力を つかう 人が ふえました。

しかし,ローマ字入力は 設計に まずい ところが おおく,ただしい ローマ字を 入力 して それを そのまま 漢字かな表記に 変換 する 自然な しくみでは ありません。そのため,ローマ字の かきかたと ローマ字入力の キーの おしかたは にて いるけれど ちがいます。これが ローマ字と ローマ字入力の 混同を まねき,「ワープロ式」と よばれる 変な ローマ字が はびこる もとに なって います。いまは 小学校で ローマ字と ローマ字入力を 同時に おしえて いますが,これが かえって ローマ字の 理解を さまたげて います。

こうして,ローマ字入力が ひろまってから わずか 1世代で 日本人は ローマ字の よみかき能力を うしなって しまいました。昔は 観光地の みやげものや 漫画に ローマ字が かかれて いる ことも よく ありましたが,いまは そんな ローマ字を かける 人も すくないでしょう。手がきを しなく なった せいで 漢字を かけなく なった 問題は よく 話題に なりますが,それよりも ローマ字を かけなく なった ことの ほうが おおきな 問題です。

99式
99-siki

1999年,「日本ローマ字会」が 99式を 提案 しました。これは パソコンの キーボードで 日本語を 入力 し,インターネットで 情報を やりとり する 時代に あわせて 設計 された ローマ字でした。

99式は 長音を かく ときでも 長音符号つき文字û, ô など)を つかわないので,キーボードで 入力 しやすく,ウェブサイトや メールで「文字ばけ」しない 利点が ありました。ただし,ふりがなを ABCに 変換 する 規則と して 定義 されて いて,現代仮名遣いに 依存 するため,日本語の 初心者には つかいこなせない 欠点も ありました。

99式は 技術的な 制約が おおかった 時代に ローマ字を パソコンや インターネットに 対応 させる ための アイデアだったと かんがえられます。ローマ字を 世の中に ひろめる ことが 最優先だったのでしょう。「日本ローマ字会」は すでに 解散 して おり,99式を すすめて いる 団体は もう ありません。

これからの 課題
Kore kara no kadai

現在,公的な 分野で つかわれて いる ローマ字は 国際化の 理念や 言語学の 理論に あわないだけで なく,ローマ字の ルールにも あわない ルール違反の かきかた ばかりです。私的な 分野で つかわれて いる ローマ字は 一般人が いいかげんに かいて いるので まちがいだらけです。この 状況は かえて いかなければ なりません。

ルールの みなおし
Rûru no minaosi

「ローマ字のつづり方」は 半世紀 以上も 前に つくられた ルールで,いくら なんでも ふるすぎます。しかも,政治的な 意図で その 内容が ゆがめられて おり,形式的には 行政機関に たいする 命令で ありながら,じっさいには 行政機関が これに したがわなくても かまわない ように なって います。パスポートや 道路標識や「英語」の 教科書が 訓令式を 採用 して いないのは,外務省や 国土交通省や 文部科学省が「ローマ字のつづり方」に したがって いないからです。

また,「ローマ字のつづり方」が さだめて いるのは ローマ字の かきかたの ごく 一部です。ルール化 しなければ ならない 項目は ほかにも たくさん あります。

ローマ字の かきかたを 理念と 理論に もとづいて くみたてなおし,その ルールが およぶ 範囲を あきらかに し,その 運用を 徹底 しなければ なりません。現状が あまりにも ひどすぎるので,移行期間を もうけて すこしずつ あらためて いくしか ありませんが,公の 分野で つかわれる ローマ字が 対象なので,計画的に 実行 できる はずです。

ローマ字教育の たてなおし
Rômazi kyôiku no tatenaosi

ローマ字は 日本語の 文章を かく ものです。ところが,いまの 文部科学省は そう いって いません。学校が ローマ字を きちんと おしえないので,一般人は ローマ字に かんして きわめて とぼしい 知識しか もって いません。学校が おしえる 知識だけでは こどもが ローマ字で 日記を かく ことも できません。おとなでも ローマ字文を すらすら よみかき できる 人は すくないでしょう。自分の 言語の かきかたを きちんと おしえない 国が 日本の ほかに あるでしょうか。これは 国際的にも はずかしい ありさまです。

いまの ローマ字教育は ひかえめに いっても 課題が あり,きびしく いえば 失敗 して います。その 原因は ローマ字が 日本語の 文章を かく もので ある 事実を 日本の 政府が 否定 して いる ことです。学術や 教育を ねじまげて いる 政治の ゆがみを とりのぞき,日本の 産業・文化 そして 日本語 そのものを 発展 させると いう「ローマ字教育の指針」が かかげて いた 理念に もとづいた ローマ字教育に たてなおす べきです。

かな文字化・ローマ字化・二表記社会
Kanamozi-ka, Rômazi-ka, 2-hyôki syakai

日本語は おとった 言語では ありませんが,その 表記法が まずい せいで さまざまな 社会問題を ひきおこして います。それどころか,表記法が むつかしい せいで 日本語 そのものが おとろえて きて おり,すでに 日本語は 公の 場で つかいにくく なって います。このままだと 日本は 英語を 公用語に くわえなければ やって いけなく なります。もし そう なったら,日本語は ますます おとろえて いくでしょう。日本語を まなぶより 英語を まなぶ ほうが 有利なので,日本人が 日本語を みすてて しまうかも しれません。

そう ならない ために,日本語の 表記法は もっと やさしい 形に かえて いく 必要が あります。そこで かんがえられる 道が かな文字論ローマ字論です。漢字表記を へらし,かな文字表記や ローマ字表記を ふやして いかないと いけません。

しかし,このような とりくみには 100年 単位の ながい 時間が かかります。現実は それを まって くれません。いまの 日本には 大勢の 外国人が すんで いて,その 中には 日本語の 会話は できても よみかきは できない 人が います。そして,そういう 人は これから どんどん ふえて いくと かんがえられます。ながい 時間を かけて いる ひまは なく,いま すぐにでも 公の 表示を 漢字かな表記と ローマ字表記の 2本だてに する などの 手だてが もとめられて います(二表記社会)。

かんちがいを あらためる
Kantigai o aratameru

インターネットの 発達で さまざまな 情報に アクセス しやすい 時代に なりましたが,それらの 情報が かならずしも 信頼に あたいするとは かぎりません。ローマ字に かんする 情報は おしなべて 質が ひくく,世の中に いろいろな かんちがいが ひろまって います。これを あらためて いく つとめも かかせません。

[よみもの]斎藤秀一
[Yomimono] Saitô Hidekatu


斎藤秀一

山形県で 小学校の 教員を して いた 斎藤秀一(さいとう ひでかつ)は,軍国主義教育に 批判的で あった こと,村の こどもや 青年に ローマ字を おしえた こと などから,1932(昭和7)年に 検挙 されました。起訴猶予に なったものの 学校は やめさせられて しまい,それからは 言語学の 研究家と して 活動 する ように なりました。みずから 専門の 雑誌を 発行 して,庄内地方の お国ことば などに かんする 論文を たくさん かきました。

かな文字論者,ローマ字論者の たちばから,漢字の 問題を するどく ついた 文章も のこして います。

漢字はむずかしいから、何人にとっても不利な文字かというと、必ずしもそうではない。ある社会組織に於いては、知識を社会の一部が独占し、民衆をある低いレベル以上に賢くしないことが、その社会組織を維持する上に必要欠くべからざるものである。漢字は支配する方の側には甚だ都合のいい文字であり、かかる組織を否定せんとする支配される側、すなわち人民にとっては非常に不利な文字である。

佐藤治助「吹雪く野づらに ―エスペランティスト 斎藤秀一の生涯―」

かれの 主張の 中で ひときわ たかく 評価 されて いる ものに,日本の 言語政策に たいする 批判が あります。このころ 日本は 台湾・朝鮮・満州 などに 日本語を おしつけて いましたが,かれは これを 言語帝国主義だと いって きびしく 批判 しました。日本語の 改革を うったえて いた 国語学者・かな文字論者・ローマ字論者 などの 中には,日本の 事情や 効率主義に かたむきすぎて,これらの 領有地に つめたい 態度を とる 人も いたのですが,エスペランティストでも あった かれは 日本だけに とらわれない ひろい 視野を もって いたのでしょう。かれの 言語理論は 民衆に よりそい 平和を もとめる 心に つらぬかれて いました。

このような かんがえから,かれは プロレタリア文化運動にも ちかづいて いきます。1938(昭和13)年,こうした 活動が 治安維持法に ひっかかり,逮捕・起訴 されます。当時の 裁判は 特高警察が でっちあげた 調書を 丸のみ するだけだったので,有罪は 確実でしたが,「転向宣言」で 執行猶予に して もらう 道が ありました。しかし,かれは それを えらびませんでした。留置場で だれにも よめない らくがきが みつかり,特高が あわてて しらべて みたら,エスペラントで「非転向」と かいて あった そうです。

秋田刑務所の 中で かれは 肺結核に かかり,たすかる みこみが なく なって 自宅に かえされました。32年の 生涯でした。