ローマ字の 目的

「ローマ字教育の指針」

ローマ字を つぎの ような ものと おもっている 人が おおいのでは ないでしょうか。

これらは すべて まちがいです。もちろん,ローマ字を 英語や パソコンに 応用 する ことも できますし,すれば いいでしょう。しかし,それは 電話を モーニングコール(wake-up call)に つかうのと おなじ くらい ローマ字の 目的から はずれています。では,本当の ローマ字の 目的は なんでしょうか?


戦後 まもなく,当時の 文部省が「ローマ字教育の指針」で ローマ字教育の 目的を のべています。ここに ローマ字の 目的が しめされています。それは 簡単に まとめると,つぎの 3項目です。

つまり,日本人が 日本語を ローマ字で 書く 社会が 想定 されていて,その 目的は 世界の 中で 日本が 発展 していく ため,日本の 産業や 文化を 発展 させる ため,日本人が 日本語を つかいやすく する ため,そう いっていた わけです。これが ローマ字の 本当の 目的です。

ローマ字は 外国人の ために ある ものだと かんがえている 人が おおいかも しれませんが,それは よく ある おもいちがいです。ローマ字は まず 第一に 日本語を つかって くらしている 人の ために あります。

この 下の 節で 3個の 目的に ついて もう すこし くわしく 説明 します。

日本語の 国際化

ひとつめは ラテン文字化の 意義を いっています。ラテン文字は ローマ帝国が ラテン語を 記述 する ために もちいた 文字ですが,のちには 世界中で つかわれる ように なり,今では 世界共通の 文字と みなされています。ですから,通常は ラテン文字で 記述 しない 言語でも ラテン文字で 記述 できる ように かんがえられている ことが あります。ある 言語の 表記法を ラテン文字で 書く ように かえる ことを「ラテン化」とか「ラテン文字化」と いいます。

たとえば,ギリシャ語は ギリシャ文字で 書く 言語ですが ラテン文字でも 書けるように なっています。中国語は 漢字で 書きますが ラテン文字でも 書ける ように なっています。おなじ ように,日本語は 漢字と かな文字で 書くのが 普通ですが ラテン文字でも 書ける ように してあります。

これを もう 一歩 すすめて,日常の 日本語を ラテン文字で 書く ように すれば,日本語・日本文化・日本的な 価値観などが 世界の 人々に 理解 されやすく なります。たとえば,日本の 新聞が ローマ字で 書かれる ように なれば,日本に 関心を もつ 外国人が 辞書を ひきながら それを 読むでしょう。これは 日本に とっても 世界に とっても おおきな メリットに なる はずですよく 日本語は むつかしい 言語だと いわれますが,これは 事実では ありません。日本語の 文法は 外国人でも 比較的 たやすく おぼえられます。むつかしいのは 日本語では なく 日本語の 表記システムや 日本の 文化です。日本語を ローマ字書きに すれば 表記システムが 簡単に なって,日本語は ほかの 言語と おなじ くらい やさしい 言語に なります。

日本語の 合理化

ふたつめは 日本語の 表記システムを 合理化 する ことを いっています。これには 能率化の 側面と 民主化の 側面が あります。つまり,産業に おける 能率アップと 教育に おける 脱エリート化です。

すすんだ 国が 事務処理に タイプライターを つかう ように なった ころ,日本人は 複雑な 字体の 漢字を 性能の わるい 筆記具で 手書き していました。また,学校の「国語」は 漢字の 習得に 時間を うばわれて 日本語 そのものの 学習が おろそかに なりがちでした。そのため,庶民は 日本語を つかいこなす 能力が 十分で なく,ごく 一部の エリート だけが 芸術的な 日本語を もてあそんでいました。日本語の 表記システムが かかえている 非能率性と 非民主性に 産業界や 教育界は 頭を かかえていた わけです。もし 日本語を ローマ字で 書く 習慣が ひろく ゆきわたれば,たくさんの 漢字を つかわずに すむので,日本の 社会は 能率的で 民主的に なる はずです。


この 問題は,ローマ字書き なんか しなくても,テクノロジーの 進歩に よって すでに 解決 しているという 主張が あります。たしかに,今は タイプライターより もっと 便利な 機械で 日本語の 文章が 書ける ように なり,面倒な 手書き作業から ほぼ 解放 されました。漢字の 字体や 筆順を 正確に おぼえる 必要も なく なって,昔に くらべて 漢字の 負担が かるく なったのは 事実です。でも,よく かんがえてみれば,漢字を 書くのが 楽に なった だけです。読む とき,はなす とき,きく ときの 負担は かわりません。たくさんの 漢字を おぼえなければ ならない ことも おなじです。日本人が 日本語を つかいこなす 能力も ひくい ままです。

それどころか,どんな 漢字も 機械で たやすく うちだせる ように なった ため,むつかしい 熟語を つかいたがる 人が ふえました「淹(い)れる」「戦(そよ)ぐ」「糺(ただ)す」などの,むつかしい 訓読みの 漢字を つかう 人も ふえました。。漢字の 知識と 日本語能力を とりちがえた わるい 流行も あって,むつかしい 漢字だらけの わかりにくい 文章を 書く 人が おおく なっていますインターネットの 発達で,しろうとが 書いた 文章を 目に する ことが ふえたのも 理由の ひとつですが,それ だけでは ありません。


いろいろな 言語の メニューバー

図は 表計算ソフトの メニューバーを いろいろな 言語で 表示 させた ものです。下線つきの 文字を みて ください。日本語の メニューバーには なぜか 英語と おなじ 文字が つかわれています。そのため,日本語の ことばと つながりが なく,おぼえにくくて 不便です。表記システムが 不合理で 機械との 相性が わるいと さまざまな 不便を しいられます。日本語の 表記システムは 時代に とりのこされつつ ある ことが わかるでしょう。


情報を つたえる 道具としての 言語,社会の インフラとしての 言語は,合理的で なければ なりません。言語 そのものを ねじまげては いけませんが,言語を 記述 する 文字は 積極的に 合理化 していく べきでしょう。漢字よりも かな文字が,かな文字よりも ラテン文字が(道具として)すぐれている ことは いうまでも ありません。世界の 文字の 歴史を みても,表語文字から 表音文字に 発展 してきた ことが わかっていますラテン文字も その 先祖は 表語文字です。表語文字の 欠点を 克服 する ために うまれてきたのが 表音文字です。日本語を ローマ字で 書くなんて かんがえられないと おもう 人が いるかも しれませんが,じつは それに ちかい ことは すでに やっています。それは ローマ字入力です。今の 日本人は 漢字を 書いている つもりで,じつは ローマ字を うっています。もし 漢字変換を やめれば,ローマ字文を 書いているのと ほとんど おなじです。あとは ローマ字文を 読むのに なれれば,ローマ字 だけで 情報を つたえる ことが できる ように なります。

表記システムは 意識的に かえていかなければ なりません。それが 社会の 発展を うながすからです。先進国で よく 正書法の 改訂が おこなわれるのは そのためです。時代に とりのこされそうな 表記システムを そのままに していたら,世の中を よく する ために 力を つくしていると いえません。

日本語の 分析

みっつめは 日本語という 言語 そのものを くわしく しらべるのに ローマ字が 役に たつ ことを いっています。ローマ字は 日本語の 音声を ほぼ そのまま 書きあらわす 表記システムですから,ことばの 発音に 目を むけさせる 効果を もっています。日本語を ローマ字で 書くと,ことばの 発音を 自然に 意識 できる ように なり,活用や 音便,お国ことばの 特徴などが 理解 しやすく なります。また,分かち書きを するので 単語を 認識 できる ように なります。

小学生にも わかる 例を あげると,「すみません」が「すいません」に なって しまう 原理が あります。これを ローマ字に すると,m が ぬけおちた ことが よく わかります。これは 発音を 楽に する ためだと かんがえられます。「春雨」の 読みかたは〈ハルアメ〉では なく〈ハルサメ〉です。これは 母音が つづくのを さけようと して s が はさみこまれたからだと かんがえられます。

su(m)imasen(スミマセン)
suimasen(スイマセン)
haruame(ハルアメ)
haru(s)ame(ハルサメ)

ローマ字なら,「目」「瞼(目蓋)」「見る」が すべて m で はじまり,「手」「轡(手綱)」「取る」が すべて t で はじまる 偶然(?)に 気づく ことも できるでしょう。

me, mabuta, miru(目,瞼,見る)
te, tazuna, toru(手,轡,取る)

共通語と 東北地方の お国ことばが どのように ちがっているかも たやすく 説明 できます。これは かな文字書きでも 説明 できますが,ちがいの 本質が 子音に ある ことを しめせる 点で,ローマ字の ほうが すぐれています。

hata, hada(旗) ito, ido(糸)
take, tage(竹) hako, hago(箱)

学校の「国語」で ローマ字を まなぶ もっとも おおきな 理由は これです。ことばの 理解は 日本語教育の 土台だからです。

「ローマ字教育の指針」それから

文部省の 指針では 念を おす ように,つぎの ことを のべています誤解 されない ように 書きそえておくと,この 指針は 漢字と かな文字による 日本語教育を 否定 しているのでは ありません。日本語は ローマ字で 書けと いっている わけでも ありません。日本語の 書きことばを 将来的に どのように していくかは 国民自身が かんがえる ことで あると のべています。

[…]英語その他の外国語を授ける前提として,ローマ字による国語の読み書きを教えようという考え方もあるが,これは,まったく誤りであって,ローマ字教育はあくまでも国語教育のために行われるものとして考えなければならない。

しかし,ローマ字に かんして このような 認識を もっている 人は,国語教師の 中にさえ,あまり いないのでは ないでしょうか。それも 当然です。じつは,日本の 政府 じたいが とっくの 昔に かんがえを かえていて,「ローマ字教育の指針」の 理念を すてさっているからです1960年代に 国語審議会の ある 委員が「国語は、漢字かなまじりをもって、その表記の正則とする」という 提案を しています。そして,この 委員らは 文部大臣から「今後の審議に当っては当然のことながら国語の表記は漢字かな交り文によることを前提とし……」という ことばを ひきだす ことに 成功 しました。このとき「ローマ字教育の指針」の 理念は すてられた,と いえます。明治時代から 半世紀 以上もの ながい 時間を かけて かんがえつづけてきた 国の 基本政策が,なんの 議論も なしに,なかった ことに されたのでした。


日本の 言語政策は ゆがめられて しまいましたが,ローマ字を まなんで つかっていく ことの 大切さは 昔も 今も かわりません。この サイトは,今の 日本政府の かんがえとは ちがい,「ローマ字教育の指針」が かかげていた 崇高な 理念を まもりつたえていく 立場で つくられています。

【読みもの】 ら抜きことば


ぜんぶ たべれる?

日本語の 変化で よく 話題に なる ものに,「みられる」「たべられる」を「みれる」「たべれる」に する「ら抜きことば」が あります。日本語の みだれだと いって これを せめたてる 人も いますが,それは 早とちりです。「ら抜きことば」は 日本語が すこしずつ かわっていく 現象の あらわれです。

「ら抜きことば」が どのように して できたのかは 可能動詞を つくる 規則で たやすく 説明 できます。たとえば,「読む」「書く」という 動詞に[可能]の 意味を つけくわえる 場合,はじめは 助動詞「れる」を つけて「読まれる」「書かれる」と いっていたのですが,室町時代に これを みじかく した「読める」「書ける」という 形が うまれ,江戸時代に ひろまりました口語の 形で 説明 しています。。これが 可能動詞です。ローマ字で 書くと,ar が ぬけて みじかく なった ことが わかります。

yom(ar)eru(読まれる)
yomeru(読める)
kak(ar)eru(書かれる)
kakeru(書ける)

もともと この 現象が おこるのは 五段活用の 動詞に かぎられていたのですが,明治時代か 大正時代に 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも それが おこる ように なってきました。

mir(ar)eru(見られる)
mireru(見れる)
der(ar)eru(出られる)
dereru(出れる)
kor(ar)eru(来られる)
koreru(来れる)

「ら抜きことば」は こうして できたと かんがえられています。若者の あいだの 流行などでは なく,100年も 前から あった 現象です。そして,本当は「ら抜き」では なく「ar抜き」です。

ひとつの 法則が より おおくの 動詞に あてはまる ように なったのですから,これは 合理的な 変化です今は まだ すべての 一段動詞が「ar抜き」に なる わけでは ありません。たとえば,ラ行下一段活用の 動詞「いれる」などは「いれれる」などが 発音 しにくい せいか,あまり「ar抜き」に なりません。4拍 以上の ながい 動詞「かえりみる」なども そうです。サ行変格活用の「する」も 普通は「ar抜き」に なりません。「する」に[可能]の 意味を つけくわえる ときは,助動詞「れる」を つけた「される」を つかわず,別の ことば「できる」を つかうからです。。助動詞「れる/られる」は 意味が ひろすぎて 誤解を まねく ことも ありましたが,「ら抜きことば」の おかげで 一段活用と カ行変格活用 の 動詞でも[可能]の 意味を はっきり しめせる ように なりました。日本語は より つかいやすく わかりやすく なったのです。

今の ところ「ら抜きことば」は 正しい 日本語と みなされて いませんが,いずれは 教科書で つかわれる ような,ごく 普通の ことばに なるかも しれません。