ことばと 文字の 関係

ことばと 文字

意味・音声・文字

漢字が つたわる 前の 日本には 文字が ありませんでした。しかし,そのころの 日本に ことばが なかったのかと いうと,もちろん そんな ことは ありません。世界には いまでも 文字を もたない 人々が くらして いますが,かれらも ことばを もって います。つまり,ことばと 文字は 別の ものです。では,ことばとは なんでしょうか。文字とは なんでしょうか。


ことばとは 意味と 音声が むすびついた ものです。何かの 情報を だれかに つたえたいと おもった 人は,つたえたい 意味に むすびついた 音声を おくりだします。すると,それを うけとった 相手は,その 音声に むすびついた 意味を 理解 します。このように,音声を なかだちに して 情報を つたえます。これが ことばの 役割です。

文字とは ことばを 記録 する 記号です。ことばを 記号化 して 粘土板に きざみつけたり 紙に かいたり して,保存 する ことが その 役割です。


なぜ 文字が つかわれる ように なったのかと いうと,それは 音声 だけの ことばに 欠点が あるからです。音声は すぐに きえて しまいます。目で みる ことも できません。音声 だけの ことばで 情報を つたえる ばあい,情報の おくり手と うけ手は おなじ 時間の おなじ 場所(声が とどく 範囲)に いなければ なりません。

それに たいして,文字は きえませんし,目に みえる 形を もって います。文字を つかえば 100キロ さきの 人にも 100年 のちの 人にも 情報を つたえられます。文字は この 必要性から うまれ,この 利便性から 発展 して きましたいまは 音声を 音声の まま 記録 できる 機械が あります。これを つかえば 文字を つかわずに 情報を つたえられます。

文字は 音声を あらわす

ここで,ひとつ 重要な ことが あります。それは,文字が あらわして いるのは 音声だという ことです。

文字で 情報を つたえる とき,情報の おくり手 Aさんは つたえたい 意味と むすびついた 音声を 文字に 変換 し,その 文字を かきます。そして,情報の うけ手 Bさんは その 文字を よんで 音声を 再現 し,その 音声と むすびついた 意味を 理解 します。つまり,文字で 情報を つたえる ときも 音声を なかだちに して いる 点は おなじです。

音声で 情報を つたえる:
(A)意味 → 音声 → 意味(B)
文字で 情報を つたえる:
(A)意味 → 音声 → 文字 → 音声 → 意味(B)

日本語では

上の 説明を よんで 何か おかしいと かんじた 人が いるでしょう。それは 当然です。ほとんどの 日本人は こんな 認識を して いません。

いま,Aさんが 紙に「日本」と かいて Bさんに みせたと します。Bさんは すぐに その 意味を 理解 するでしょう。ところが,このとき Aさんも Bさんも「日本」の よみかた(ニッポン/ニホン)を 気に して いません。この ばあいは 音声を なかだちに して いないのです。

文字で 情報を つたえる:
(A)意味 → 文字 → 意味(B) 【日本語】

これこそ 日本語の 特徴で,世界の 言語の 中で かんがえると 特異な 性質です。いうまでも なく,これは 漢字を つかって いるからです。しかし,漢字 そのものが 理由では ありません。その 証拠に,中国人は こんな 認識を して いません。日本語 だけが 世界の 標準から はずれて います。

日本語が もって いる この 個性は,ある 面で 長所と みなせる ことも ありますが,ことば ほんらいの 役割から いえば,あきらかに 短所です。これは 日本語が かかえて いる おおきな 問題です。


この 問題を もう すこし ふかく 理解 する ための 準備として,つぎに さまざまな 言語に おける ことばと 文字の 関係を 説明 します。

さまざまな 言語

文字を もたない 言語

文字を もたない 言語では 意味と 音声の むすびつき だけが あります。ここでは「山」を〈マーヤ〉と よぶ 架空の 言語を かんがえます。

この 言語では 意味の「山」が 音声の〈マーヤ〉と むすびついて います。この 言語で くらして いる 人々は,「山」の はなしを する ときに〈マーヤ〉と いい,〈マーヤ〉を きけば「山」だと わかります。


文字を もたない 言語

英語

英語では 意味の「山」が 音声の〈マウンテン〉と むすびついて います。英語で くらして いる 人々は,「山」の はなしを する ときに〈マウンテン〉と いい,〈マウンテン〉を きけば「山」だと わかります。

また,音声の〈マウンテン〉が 文字の mountain と むすびついて います。そのため,「山」の はなしを する ときに mountain と かく ことも でき,mountain を よめば「山」だと わかります。

ここで 気を つけなければ ならないのは,mountain が むすびついて いるのは 音声の〈マウンテン〉で あって,意味の「山」では ない ことです。文字の mountain は 意味の「山」と 直接には むすびついて いません。文字は ことばの 音声を うつした コピーに すぎませんこれは,音声が ことばの 本質で あって,文字は 外見に すぎないという かんがえです。これは 世界の 常識ですが,日本人は この かんがえを 共有 して いません。なお,文字は 音声の コピーですが,正確に 音声を うつしとる 録音の ような ものでは ありませんし,言語学者が 分類した 音声を あらわす 発音記号(音声記号)の ような ものでも ありません。しかも,音声と 文字(つづり)の 対応には ずれが できて 不規則に なって いるのが ふつうです。英語は 音声と 文字の 対応が わるい 言語の 代表で,英語で くらして いる 人も それを 不便に かんじて います。つづり字の 改革を うったえる 団体も あります(enoughinaf に しようという ような 運動を して います)が,英語は おおくの 国で つかわれて いるので,改革は なかなか すすみません。


英語

ラテン文字で かく 言語は すべて この パターンに なります。

ギリシャ語

ギリシャ語では 意味の「山」は 音声の〈ブノ〉に むすびついて います。ギリシャ語で くらして いる 人々は,「山」の はなしを する ときに〈ブノ〉と いい,〈ブノ〉を きけば「山」だと わかります。

また,音声の〈ブノ〉が 文字の βουνό と むすびついて います。そのため,「山」の はなしを する ときに βουνό と かく ことも でき,βουνό を よめば「山」だと わかります。

英語と ちがうのは ギリシャ文字による 表記の ほかに ラテン文字による 表記が ある ことです。


ギリシャ語

ラテン文字以外の 表音文字で かく 言語は すべて この パターンに なります。

中国語

中国語では 意味の「山」は 音声の〈シャン〉と むすびついて います。中国語で くらして いる 人々は,「山」の はなしを する ときに〈シャン〉と いい,〈シャン〉を きけば「山」だと わかりますじっさいは,〈シャン〉には 同音の ことばが たくさん あるため 前後関係が ないと 意味が わかりません。この 問題は 漢字を ふたつ くっつけて 熟語を つくれば 同音の ことばが へって ほぼ 解決 できます。

また,音声の〈シャン〉が 漢字の「山」と むすびついて います。そのため,「山」の はなしを する ときに 漢字の「山」と かく ことも でき,漢字の「山」を よめば「山」だと わかります。

そして,ギリシャ語と おなじで,漢字による 表記の ほかに ラテン文字による 表記(ピンイン)が あります。

ギリシャ語と ちがうのは 意味の「山」と 漢字の「山」が 直接 むすびついて いる ことです。空色の 線で しめしたのが それです。中国語では,意味・音声・文字が 三角形を つくって 一体化 して いると いえます漢字は 字義(意味)・字形(文字)・字音(音声)の みっつが むすびついた 結合体です。つまり,ひとつの 文字が ひとつの ことばを あらわして います。このような 文字を「表語文字」と いいます。


中国語

ここで,空色の 線を かんがえない ことに すれば,下の 図に なります。


中国語(空色の 線を のぞいた 形)

これは ギリシャ語の パターンと おなじです。中国語は 表音文字で 記述 する 言語に 空色の 線を つけたした 拡張版で ある ことが わかります。

日本語

日本語では 意味の「山」は 音声の〈ヤマ〉と むすびついて います。日本語で くらして いる 人々は,「山」の はなしを する ときに〈ヤマ〉と いい,〈ヤマ〉を きけば「山」だと わかります。

また,音声の〈ヤマ〉が かな文字の「やま」「ヤマ」と むすびついて います。そのため,「山」の はなしを する ときに「やま」「ヤマ」と かく ことも でき,「やま」「ヤマ」を よめば「山」だと わかります。

そして,かな文字による 表記の ほかに,ラテン文字による 表記が あります。さらに,漢字による 表記も あり,中国語と おなじ 空色の 線が あります。

漢字の「山」は 音声の〈サン〉とも むすびついて います。ただし,音声の〈サン〉は 意味の「山」と むすびついて いません。これは「サン」という ことばが ない ことを 意味 します。つまり,たかい 山を みて「あの サンは たかい。」と いえません。


日本語

日本語の パターンは きわめて 複雑です。中国語と ちがって 空色の 線を かんがえない ことに しても かんたんな 形に なりませんさらに ややこしいのは,上に あげた 例と ちがう パターンも ある ことです。漢字が 複数の 訓よみを もつもの(例:「魚」「生」),複数の 音よみを もつもの(例:「行」「生」),音よみの 音声も 意味と むすびついて いる もの(例:「三」「愛」),漢字の ない もの(例:「テレビ」「パソコン」)などが あります。しかも,規則性が まったく ありません。

世界の 言語の 中で これほど 奇妙な ありさまに なって いるのは 日本語 だけです。何かが おかしいと しか かんがえられません。つぎの 章で そこを みて いきます。

【よみもの】 「今年の漢字」


「今年の漢字」(1995 - 2014)

毎年 12月に なると,「今年の漢字」が 話題に なります。その 年の 世相を あらわす 漢字を 公募で きめる,おなじみの イベントです。

これを 外国に ある Word of the Year などの 日本版だと おもって いる 人が いるかも しれませんそれに ちかいのは「新語・流行語大賞」かも しれません。。しかし,よく かんがえて ください。日本語の 漢字は 文字です。ことば(word)では ありません中国語の 漢字は 文字で あると 同時に ことばで あるとも いえます。。どこかの 国が「今年の 文字」と いって P とか Q とかを えらんで いたら 変ですが,日本は それに ちかい ことを やって いるとも いえます。

もちろん,漢字は PQ と ちがって,意味を もって います。しかし,国語辞典に のって いる ことばの ほとんどは 1文字の 漢字で かきあらわせません。1文字の 漢字で かけるのは 日本語の 中の ほんの 一部分に すぎません。

ある 人が,今年は さまざまな 社会制度の「矛盾」が ふきだした 年だったと かんがえた ばあい,「今年の漢字」に「矛」と「盾」の どちらを 応募 したら いいでしょうか? また ある 人が,今年は 有名人の「息子」が 大活躍 した 年だったと かんがえても,「息」だけでは たぶん「いき」だと おもわれて しまいます。「硝子(ガラス)」の 年だと おもっても,「硝」では だれも 意味が わかりません。「ハンバーガー」みたいな 年だったら どうしたら いいでしょう。

「今年の漢字」は 日本漢字能力検定協会が 主催 する イベントに ふさわしく,みんなで たのしめる 知的な ゲームです。しかし,世相を みじかく 表現 する 手段としても,日本語を あやつる 能力を はぐくむ 教育としても,あまり ふさわしくは ありません。

日本語の 表記システムが かかえる 問題

何が 問題なのか

世界の 常識から はずれて いる

ふつう,ことばの 意味は その ことばの 音声が になって います。文字を つかわない 会話でも 意味が つたわるのは 音声を きけば 意味が わかるからです。世界の ほとんどの 言語では,文字は 音声を あらわして います。文字を みれば 音声が わかり,音声が わかれば 意味が わかる,そういう しくみに なって います。

ところが,日本語は そう なって いません。文字を みても 音声が わかるとは かぎりません。しかも,音声が わからなくても 意味が わかります。これでは まるで 文字が 意味を になって いる ようです。日本では じっさいに そう かんがえて いる 人が います。ことばは 文字で かかれる 前に まず 音声です。これが 世界の 常識です。ところが,日本語は この 常識から はずれて います。

日本語を 不完全に して いる

中国語は 複雑な 表記システムですが,そのぶん 高機能に なって いる だけです。漢字は ひとつの 単語に 対応 する 文字ですが,中国の 漢字には きまった よみかたが あるので,漢字を みれば 単語の 音声が わかります。その 音声を きけば 単語の 意味が わかります。さらに,文字の 形からも 意味が わかるので,より 正確に 意味が わかる しくみに なって います。つまり,音声で 意味を つたえる 基本機能の 部分は 表音文字で かく 言語と おなじです。

ところが,日本語は そう なって いません。日本語も 複雑な 表記システムで 高機能ですが,基本機能の 部分が 表音文字で かく 言語と ちがいます。「山のぼり」「ぼた山」などの ことばを きけば,音声の〈ヤマ〉から 意味の「山」を おもいうかべる ことが できるので,音声 だけで 意味が わかります。けれども,「山脈」「富士山」などの ことばでは 音声の〈サン〉から 意味の「山」を おもいうかべる ことが できません。音声の〈サン〉と 意味の「山」が 直接 むすびついて いないからです。音声の〈サン〉から 意味の「山」に たどりつくには 漢字の「山」を とおって まわり道を しなければ なりません。音声の〈サン〉だけでは 意味が わからず,漢字の「山」を おもいうかべる ことが できた ときに はじめて 意味が わかります。日本語は 文字に たすけて もらわなければ 一人前に 役割を はたせない わけです。ことばが 半人前に なりさがって いるとも いえます。これでは せっかく 高機能なのに 基本機能が こわれて いる ような ものです。


音声と 意味が 直接 むすびついて いない

このように,日本語は 表記システムが まずい せいで 不完全な 言語に なって います。世界に 数千 あると いわれる 言語の 中で,音声 だけで 意味を つたえられない 言語が 日本語の ほかに あるでしょうか。これでは 日本語が 欠陥言語だと いわれても しかたが ないでしょう。

日本語の 表記システムは すごい?

日本語の 表記システムには 問題が あります。ところが,この 問題から 目を そむけ,日本語の 表記システムは すぐれて いると 自慢 する かんがえが ひろく うけいれられて います。そこで,よく ある かんがえの いくつかを とりあげて,その あやまりを 指摘 して おきます。

音声言語より 文字言語が 重要?

文字に たよらないと 情報を つたえられない 欠点が ある 日本語を かばいだて して,現代社会では 音声言語よりも 文字言語(書記言語)が 重要だと いう 人が います。

たしかに 文字言語は 重要です。いまは 一般人の 識字率が たかく,おおくの 情報が 文字に よって つたえられます。複雑で たくさんの 情報を まちがいなく つたえるには 文字を つかう ほかに 手だてが ありません。科学者が つかう 数式や 化学式,技術者が つかう プログラム言語(programming language)なども 文字言語の 一種ですが,これらが なければ 文明社会は なりたちません。知識人 ほど 文字に よりかかって いる 割合が おおきい ことも 事実です。

けれども,音声言語の 前に 文字言語を おぼえた 人は いません。文字言語を つかいこなせる 知識を 身に つけるには,その 前に 音声言語を しって いる 必要が あります。日本の 小学生は 漢字の 前に かな文字を ならいます。中国の 小学生も 漢字の 前に ピンインを まなびます。まず 音声,つぎに 表音文字,それから 漢字という 順番で 上に つみあげて いく ものです母語が できあがった あとで 外国語を まなぶ ばあいは 音声が なくても かまいません。たとえば,日本語の はなし手が 本を よんで 英語の よみかき だけを 勉強 できます。

このとき,上に のって いる ものよりも 下の 土台の ほうが しっかり して いないと こまります。上に ある ものは 立派に みえますが,本当に 大切なのは 下の 土台で,これは なくては ならない ものです。文字言語は 重要ですが,音声言語は それにも まして 重要だと かんがえる べきです。

表記の 多様性?

日本語の 表記システムが もつ 複雑さを ゆたかな 多様性として プラスに かんがえる ことも できます。この 多様性は 表現活動(芸術・広告・趣味 など)に 役だつだろうという 意見が あります。

たしかに その とおりです。けれども,表記システムが かんたんな 外国語は 日本語より 表現力が おとって いるでしょうか。そんな ことは ありません。世界的な 文学作品の ほとんどは 外国語で かかれて いる ことから それが わかります。日本語も 外国語も 表現力は おなじです。ちがうのは,外国語が ことば そのもので 表現 するのに たいして,日本語は ことば だけで 表現 できる ことが すくなく,表現力の おおきな 部分を 表記システムが になって いる ことです。

日本では ことば そのものによる 表現を みがきあげる 努力が おろそかに されて います。才能の とぼしい 作家や コピーライター などに とって,表記の 多様性は 手ばなせない アイテムです。中身の ない 文章を みた目の かざりつけで ごまかしたり,字面の おもしろさ だけで 人目を ひきつけたり できるからです。

日本の 作家は「ホトトギス」の 漢字表記には 頭を つかうのに レトリックは おざなりだったり します。そんな ものは「文芸」と よべません。「文字芸」です。外国でも 人気が ある 作家の 村上春樹は,はじめから 外国語に 翻訳 される ことを 意識 しながら かいて いる そうです。みた目の こけおどしでは なく 中身で 勝負 して いる わけですラーメン屋は ラーメンの 味で 勝負 する べきです。なお,村上春樹が 日本語を 武器として 利用 して いない わけでは ありません。かれは 英語の 直訳を おもわせる いいまわしで,日本語で ありながら 日本語で ない ような,不思議な 感覚を つくりだす ことが よく あります。この 感覚は 日本語で よんで いる 読者 だけが かんじとれる ものです。この 原作を そのまま 英訳 して しまうと,英語の はなし手が みなれて いる ありふれた いいまわしに なって しまい,不思議な 感覚が うまれません。

日本の 発明?

日本語の 表記システムが もつ 複雑さは 日本語 だけの 特長で,世界に ほこる べき 日本の 発明だと いって いばる 人が よく います。漢字と かな文字の くみあわせや 訓よみ など,いまの 日本語が もって いる 個性を 自慢 したい ようです。

けれども,これは かんちがいです。何千年も 前に エジプトや メソポタミアで つかわれて いた ヒエログリフや 楔形文字(くさびがたもじ,せっけいもじ)の 表記システムが まさに いまの 日本語と おなじ ありさまだったのです。それらが あまりにも ややこしくて つかいにくいので,すこしずつ 改良 されて いき,そうして 現在 つかわれて いる 表音文字(ギリシャ文字・ラテン文字・キリル文字・アラビア文字 など)が できたのでした。これが 文字の 歴史です。

どんな 言語も 時代と ともに うつりかわって いきます。はなしことばは 自然に かわって いく ものですが,かきことばは それを つかって くらして いる 人が 意識的に つくりかえて いく ものです。すすんだ 国が ときどき 正書法を あらためるのは このためです。ベトナムや 韓国・朝鮮は 漢字を やめました。中国も 漢字を 合理化 しました。こうした 前むきな 努力の つみかさね こそ 本当に ほこる べき ものです。

日本語の 表記システムが 外国語の それに くらべて 数千年 おくれて いると いったら いいすぎですが,おくれて いるのは まぎれも ない 事実です。その 証拠に,日本語の 表記システムを うらやましいと おもって いる 国は 世界の どこにも ありません。

解決への 道筋

日本語の 表記システムが もって いる このような 問題を 解決 する 道が かな文字論ローマ字論の かんがえかたです。ことばと 文字の 関係を 世界の 標準と おなじに しようと いう わけです。


かな文字論と ローマ字論の かんがえかた

【よみもの】 文字禍(もじか)


シュメール=アッカド語 楔形文字楔形文字は メソポタミア地方で 約3000年に わたって つかわれた 文字です。基本的には 表語文字ですが 表音文字も かねて いました。その 表記システムは たいへん 複雑で あつかいにくい ものでした。アッシリアで つかわれたのも そんな 楔形文字の ひとつです。

中島敦(なかじま あつし)は「山月記」など 格調たかい 漢文調の 文体で しられて いますが,そうでは ない 作品の 中にも すぐれた ものが あります。その ひとつが「文字禍」です青空文庫:文字禍

《あらすじ》古代アッシリアの 図書館で「文字の 精霊」の はなし声が するという うわさが たち,大王が 老博士に しらべさせました。博士は,粘土板に きざまれた 線の あつまりが 精霊の 力に よって 音声と 意味を もつ ように なる ことを つきとめました。そして,この 精霊の 力が 社会の すみずみに ゆきわたって,人間を おとろえさせ,歴史を ゆがめて いる ことを みぬきました。おそろしく なった 博士は 報告書を まとめ,文字を 崇拝 しない よう 大王に 進言 しました。その 数日後に おおきな 地震が おこり,自宅の 書庫に いた 博士は,すさまじい のろいの 声と ともに くずれおちて きた 粘土板の 下で 息たえました。

「文字禍」は「山月記」と おなじ 短編集に おさめられた 作品で,どちらも 言語が 重要な モチーフに なって いますが,印象は かなり ちがいます。「山月記」が おもくるしい かんじなのに たいして,「文字禍」は 文体が かるく,老博士が ひとつの 文字を みつめすぎて 文字が ゲシュタルト崩壊 する くだり なども あり,ユーモアを かんじさせます。


中島敦は 小説家として しられて いますが,戦時中 パラオで はたらいて いた ことも あります。現地の 人を 日本語で 教育 する 教科書を つくって いました。そうで なくても 小説家で あれば 日本語の 表記システムに ついて かんがえる ことが あった はずです。そんな ところから「文字の わざわい」という アイデアを おもいついたのかも しれませんパラオの ことばには たくさんの 日本語が はいりこんで いて,ときどき テレビ番組で おもしろおかしく とりあげられます。それは 日本が パラオに 日本語を おしつけて いた 時代が あるからです。いまは アメリカが 英語を おしつけて います。ある 言語が 外国語と 接触 して かわって いくのは ふつうの 現象で,わるい ことでは ありません。むしろ,その 言語の 発展と かんがえる ことも できるでしょう。けれども,その 接触が 対称的で なく,一方が 他方に 影響を あたえる だけで あれば,そこには かならず 何か 問題が あります。